HACHINOHE HISTORIA

文化財詳細

#歴史資料 #市指定 #江戸時代 #寺社仏閣
五梅庵畔李「国の光」献額
五梅庵畔李「国の光」献額
(市指定、寺社仏閣、長者山新羅神社(写真提供:八戸市教育委員会社会教育課))

八戸の俳諧

八戸に俳諧が伝わったのは、宝暦8年(1758)、藩士船越三蔵(ふなこしさんぞう)〔俳号頴月堂棹佐(えいげつどうとうさ)〕が5代藩主南部信興(なんぶのぶおき)に松永貞徳(まつながていとく)を祖とする貞徳流俳諧を相伝したことに始まるといわれるが、これより先の延宝9年(1681)刊行の『それぞれ草』や、天和2年(1682)の『松島眺望集』の中に八戸の俳人の名前がすでに見られる。

このような歴史をもつ八戸の俳諧も、最も人々に受け入れられ広まったのは7代藩主南部信房(のぶふさ)の治世であった。信房(1765~1853)は、はじめ松尾芭蕉の流れをくむ江戸常詰の藩士窪田半右衛門(くぼたはんえもん)〔俳号楓台互来(ふうだいごらい)〕に学び、互扇楼畔李(ごせんろうはんり)の号を得、全国的に流行していた蕉風俳諧を嗜んだ。その後、花咲亭畔李(はなさきていはんり)、五梅庵畔李(ごばいあんはんり)と名乗り、新春や歳暮に盛大な句会を催すなどし、俳諧を通じて各国の大名や江戸の商人、絵師など多くの人々との交流を広げていった。その広がりはやがて、藩主の正室、側室、兄弟など身近な人々から藩士、僧侶、修験、町人へと裾野を広げていった。

これら俳諧の伝統は、それ以降も多くの俳人によって育まれ、「星霜庵(せいそうあん)」「百丈軒(ひゃくじょうけん)」「花月堂」は現在まで連綿と受け継がれ、八戸の俳句の伝統を支えている。

解説執筆者 : 八戸市美術館 山田 泰子
推薦文献 : 図録『八戸俳諧倶楽部創立百周年記念事業特別展 八戸の俳諧』2003 八戸市博物館発行 ,図録『八戸俳諧のあゆみ』1989 八戸市博物館発行

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