HACHINOHE HISTORIA

文化財詳細

#書籍・典籍・古文書 #指定・登録なし #市指定 #江戸時代 #八戸市立図書館 #個人
文久改正八戸御城下略図(一部)
文久改正八戸御城下略図(一部)
(指定・登録なし、八戸市立図書館)
八戸城内図〔古御殿御絵図面(ふるごてんおんえずめん)〕
八戸城内図〔古御殿御絵図面(ふるごてんおんえずめん)〕
(市指定、個人、文政10年(1827)、縦:250cm 横:215cm)
古御殿の本丸概略図〔「古御殿御絵図面」を元に作成〕
古御殿の本丸概略図〔「古御殿御絵図面」を元に作成〕
(指定・登録なし、『新編八戸市史 通史編Ⅱ 近世』より)
八戸城内図〔新規御普請御殿御絵図面(しんきごふしんごてんおんえずめん)〕
八戸城内図〔新規御普請御殿御絵図面(しんきごふしんごてんおんえずめん)〕
(市指定、個人、文政10年(1827)、縦:210cm 横:265cm)
新御殿平面図〔「新規御普請御殿御絵図面」を元に作成〕
新御殿平面図〔「新規御普請御殿御絵図面」を元に作成〕
(指定・登録なし、『新編八戸市史 通史編Ⅱ 近世』より)

八戸城跡

八戸は寛永4年(1627)に盛岡南部氏の直轄領地となり、この頃に盛岡藩の代官所が置かれたとされる。その後、寛文4年(1664)に盛岡藩から独立して八戸藩が誕生し、八戸城は南部家2万石の居城となった。

八戸城は天守がない陣屋形式であり、本丸・二の丸・外郭からなる(画像1)。本丸は城郭の北西隅に位置し、規模は東西約150m・南北約200m、四方に土塁と水堀を巡らせていた。南東に大手門、北東に裏門があり、門の内側には番所が設けられた。本丸跡は、現在の三八城神社・三八城公園・県道本八戸停車場線西側の住宅地に相当する。二の丸は本丸の東方から南方を囲むように位置し、城郭の大半を占める。規模は東西約200m・南北約300mの複雑な形をしている。北から南にかけての外周は幅約6mの堀が巡らされ、南は空堀であった。南西に城下への出入口の表門があり、南東の常海丁(じょうかいちょう)には東門、北西の屋敷下口には北門があった。文政10年(1827)、御殿の建替えが始まり、建替え前は古御殿、その後は新御殿といわれ、新御殿は明治4年(1871)の廃藩置県まで使用された。古御殿と新御殿の様子は「古御殿御絵図面(ふるごてんおんえずめん)」(画像2・3)と「新規御普請御殿御絵図面(しんきごふしんごてんおんえずめん)」(画像4・5)に残されている。

解説執筆者 : 八戸市社会教育課 横山 寛剛

歴史文化マップ(出土・発見・ゆかりの場所)

文化財マップ(展示・所蔵場所)