八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
三陸復興国立公園指定記念論集 復興公園・種差あれこれ
瀬川征吉
八戸圏域にとっては、八十年来の念願が、青森県にとっては十和田湖が国立公園の指定を受けてから七十七年ぶり、二ヵ所目の国立公園の誕生となった。
昭和初期、二代目八戸市長・神田重雄氏が八戸の観光地PRを進めようと「八戸小唄」を作り、全国に広める機運醸成を図ります。その一連の流れの中で招かれた吉田初三郎画一伯が、初めて種差海岸を訪れたのが 昭和七年(一九三三三)のこと。初三郎は初めて訪れた、種差を「日本一の海岸美」と絶賛し、自ら、この地に鳥瞰図を描く別邸兼アトリエ「潮観荘」を建て全国の観光図を描く拠点とします。
以来、懸案であった種差海岸が、 幾多の働きかけでも、国の名勝地から、国立公園に格上げされなかったのは、「十和田湖などと比べ面積が足りなかったから」とも言われてます。いずれにしても国の関係当局との間に見解の相違、壁があったことは確かであったと思います。
それが東日本大震災のあと「天災転じて福となす」形ながら、岩手県側の「陸中海岸国立公園」とつながるように見直されて、「三陸復興国立公園」として、再編成されたことは誠に喜ばしいことでした。
初三郎に先駆け、種差海岸の景勝を「素晴らしい」と感動し、十和田湖を全国に紹介したのは大町桂月。 この桂月の文芸力があったからこそ、 その後の文人たちの連鎖があり吉田初三郎をしてこの地に製作活動の拠点を設けることになります。
これからの歩みを思えば青森県民は「十和田湖は大町桂月、種差海岸は吉田初三郎」と、二人の文人と絵師を、国立公園誕生の、いわば親として紹介するようになるでしょう。
今回の「三陸復興国立公園指定」 を、八戸市では、種差海岸に特化し、 PRしているように映りますが、もとより、国の天然記念物でもある「蕪島」も含まれます。従って、ウミネコの飛来地「蕪島」と、広大な海岸線の芝生と、季節の花々が咲き乱れる「種差海岸」は、相乗的に宣伝することで観光の誘客につながるのは言うまでもありません。また、隣町の「時上の海岸線と階上岳」の指定は、海岸線はともかく、階上岳は青天の霹靂の感あり、これからの「観光地としての受け入れ態勢づくり」 が急務と思われます。
種差海岸にしても、食事はできますが土産品の開発は、これからというのが現状でしょう。いずれにしても、明年春、国で建設するインフォーメーションセンター(ビジターセンター)が出来る事で、急速に観光客らの受け入れ態勢が整ってきます。
種差海岸は、八戸市民の夏場の保養地でもあり、多くの市民が青春の思い出を刻んだ海岸でもあることは確かです。
かくいう私も、この地でデートをした夏の日の思い出が甦ります。列車に乗り遅れてしまい、暗い夜空に上がる、かすかな花火をみながら線路沿いを手をつないで歩いた遠い夏の思い出・・・・・・。
「三陸復興国立公園」は、全国で三十ヵ所目の国立公園です。だから、 今までもそうであったように、これからも海岸の適正な「美化活動」を進めながら、国の「宝」として、北の地の海岸を綺麗に守り続けることが、この地の繁栄につながることは言うまでありません。