八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
十周年記念小論集 「八戸ペンクラブ」事始め
島守光雄
私は電通に昭和二十七年から三十二年間勤務し、広告を通じて新聞、出版、放送各社の人びとと接触がありましたが、不思議なことに日本ペンクラブの話題は全く認識しませんでした。
日本が大戦に敗れて亡国の危機から脱するために一丸となって働き出し、ようやく高度経済成長の波にのりかかった時です。しかし、昭和四十年代後半の「ニクソンショック」 に続く二度にわたる「石油ショック」 によって日本の政治・経済の盲点が露呈されます。そして新聞の一隅に日本ペンクラブが警世の声明を出したという記事がのるようになってから同クラブを意識するようになりました。
それは同クラブで活躍していた川端康成、井上靖、石川達三、梅原猛、 井上ひさしなどの著作を私が好んで読んでいたせいかも知れません。
会社定年と同時に郷里八戸に帰るや大学勤務の傍ら「まちづくり」のため、奔走する人びとに加わって忙しい毎日を過ごしておりました。
そのころペンクラブが弘前や青森にできるとか活動ぶりの新聞報道があり、八戸に何故できないのか、火中に栗を拾う先輩はいないのか、と久しく思いながら有志の人びとと論議したものです。
ところがなかなか手をあげるような人はでてきません。そこで自分でペンクラブを起ち上げるしかないと意を決し、弘前・青森両ペンクラブに手紙を書きました。ペンクラブの設立の経緯やどんな動き方をしているかを教えて欲しいとの内容です。 両ペンクラブとも大変協力的でした。
平成十四年十月、大変有力な助っ人が現れました。それは、現在、八戸ペンクラブが事務局を置いている藤要ビルのオーナー藤田要吉氏です。 彼は私の小学校時代の同級生です。 八戸市内丸に五階建てのビルを持ち、 その一階は八戸会館というホールとしてあるので、会合などあればいつでも便宜をはからうというのです。 もちろん事務局用の部屋も設けようとのことでした。これに勇気を得て私の八戸ペンクラブ創立の活動に拍車がかかりました。
しかし、ペンクラブを八戸で起ち上げるためには、まず、自分自身が日本ペンクラブの会員になるのが筋道であろう。そこで日本ペンクラブへ入会の条件を問い合わせたところ、 入会には理事会員一名を併せて二名の現会員の推薦が必要であるということが判りました。入手できた理事名簿には気安く頼める人がなかなか見当たらない、ふと面識はないが、 新井満という名に出会った。芥川賞作家である新井氏は当時電通の社員でもありました。私は新井氏に、詳しい私の履歴と著作物を並べて、電通OBとしての推薦をお願いしたいと頼んだところ快く承諾してくれました。もう一人は八戸高校の後輩であるやはり芥川賞作家三浦哲郎氏です。この二人によって私の入会がようやく許されることになりました。
ところで、平成十五年一月、青森県の知事選挙があって木村守男知事が再選されました。その直後に木村知事のスキャンダルが「週刊新潮」 始め多数のマスメディアで報道されました。
これを受けて弘前の女性たちが、 知事リコールの署名活動に早速立ち上がる。しかし、八戸の方では女性はもちろん男性からも声が上がらない。そこで私は弘前や青森に居る官立弘前高校時代の数人に知事の事件の真相はどんなものであるかを手紙で問い合わせ、その情報を分析した上で、「デーリー東北」の「こだま欄」 に投稿しました。「こだま欄」掲載後も八戸周辺からは表だって声を上げる人は見当りませんでした。会合などで顔を合わせた人の中には「こだま欄」でよくぞ言ってくれたという人はかなりおりましたが、仕事上のしがらみなどから声を上げにくいのだという人も少なからずおりました。結局、その後紆余曲折を経て木村知事は辞職を余儀なくされました。
この経験から名もない一人の声だけで世はなかなか動かしがたいものがある。この限界を突破するため、 弘前の女性のように一つの組織やグループを作って声を上げることが必要ではないだろうか、ということに思い至りました。
そこで急遽、それまで語り合っていた有志らと相図り、その年の四月に八戸ペンクラブ設立準備委員会を立ち上げ、翌五月には設立総会が開催できることになりました。
八戸ペンクラブは当然ながら政治勢力を結集することを目的としているわけではありません。やはり日本ペンクラブのようにペンを持つ者たちが、ものを書き、文学を語らい、 時には言論の自由のため、あるいは戦うとすれば、ペンで戦うということが中心ということになります。
昭和十年、島崎藤村を会長として発足した日本ペンクラブは「各国の文筆家が国際的な親善を通して、世界平和を実現するために、言論報道の自由を堅持することを目的とした国際文化組織」というのが一つの定義となっています。日本ペンクラブが国内や国際的文化組織であるとすれば、八戸ペンクラブは八戸地域を発展させ、文化向上のためのリベラルな組織であるべきであろう、というのが私の信念であります。
この考え方は、現在の役員間においても確固たるコンセンサスになっていることは言うまでもないことでしょう。 (八戸ペンクラブ前会長)