八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

企画 戦後70年+1 その〈2〉戦時、私は軍需工場で働いた

大嶋由五郎

 私の生れたところは、三戸郡上長苗代村大字根岸字林前3番地、現在の八戸市尻内町である。

 8歳で三条尋常小学校に入学して、 その後国民学校と変更になり、高等科は特修科に変わった。学校の勉強よりも、青年学校に行って在郷軍人に訓練を教えてもらう方が多かった。

 一九四一(昭和十六)年十二月八日に太平洋戦争が始まり、真珠湾攻撃をしてアメリカの軍艦を大破したニュースが流れると、村の人々は白山神社に軍歌を歌って旗行列をした。

 南方戦線で大勝利のニュースが流れると、みんな神社にお参り、大人も子供も軍歌を歌い夜も行列し祝う。 男子は二十歳になると、赤紙が来るという。そのうちに男性が少なくなり、自分たちに徴用がかかり、一九四四(昭和十九)年、私も十七歳で東京の軍需工場へ行く事になった。 見送りの人達は軍歌を歌い、私は歓呼の声に送られた、8両編成の臨時列車が出るとき、父は構内の柱の陰で泣いていた。

 行く先も知らないまま汽車は二十時間も走った。栃木県小山駅で乗り換えてようやく中島飛行機株式会社に着いた。十五日間、仕事の訓練を受けまた移動。浅草から地下鉄で上野へ、山手線池袋などを何度も乗り換えて、やっと到着したのが武蔵野常盤駅だった。そこから歩いて板橋へ行き、中丸重工業株式会社に着いた。仕事は飛行機の部品造りで、旋盤というものを初めて見た。

 毎日、丸い鉄バイブを切るのだが、 身体に油が飛び散りひどく汚れた。 また、長時間の作業が続き大変だったことを思い出す。

 昭和二十年、板橋の小学校で兵隊検査を受けて、大人の仲間入りをしたが、背丈が低いし、身体が丈夫ではないので、第二国民兵として銃後の守りにつくように言われた。国内に残って国を守る役である。

 爆撃はしないが、房総半島方面からアメリカの偵察機が毎日のように飛んできた。富士山を目印にして東京上空に来るらしかった。当時、必ず東都軍官区情報が放送された。どこかで火事があった。朝鮮人のスパイがわざと火事を起こし、ここが東京だと知らせたらしいとの噂を聞いた。

 三月初旬、警戒警報発令が空襲警報に変わると、4発機のB29が来た。最初は夜十一時に空襲が始まった。ラジオの情報で、「警戒警報発令中」が二回流れて、10分ぐらいでB29が昼も夜も攻撃してきた。焼夷弾が雨あられと降り注ぐ。その時の敵機は五百機とも言われるが、とにかくすさまじかった。浅草方面も深川方面も火の海となり死人の山だったという。

 日本軍の飛行機が上空1万メートルから、B29に体当たりする場面を目の前で見た。B29が下から上空にまっすぐ上がって空中分解した。まさに空中戦だ。落ちてきたB29のタイヤは九尺もあった。

 みんな自分の身体を守ることに精いっぱいだった。夜は曳光弾と言って五発のうち一発が光るようになっているもので、打ち込んできた。焼け野原の向こうに皇居が見えた。皇居だけには爆弾が落ちなかったようだ。

 自分たちが働く飛行機工場は焼け残ったが、発電所がやられているから、電気がこなくなり仕事ができず、 福島県浪江の工場に疎開した。

 疎開先に父が怪我したと電報があったので、政府から切符を買ってもらい実家へ帰ったら、尻内駅も攻撃に遭っていた。

 農作業で馬を引き田起こしする時、 素足に機関銃の薬きょうが触った。 そこら中に沢山刺さっていた。

(八戸市の野々口美代子さんによる聴き書き。大嶋さんは八戸在住)