八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

十周年記念小論集 北千島での戦争体験記(上)

三上秀光

 私は一九四三年(昭和十八)徵集の現役兵で山形連隊歩兵砲中隊に入隊した。「三八式」歩兵砲(日露戦争時の大隊砲で山砲とも呼ばれてた)の訓練を受けた後、一九四四年六月に弘前で数百の新兵だけで部隊を編成し、小樽を経て北方軍九一師団「先」部隊に約一五〇名と共に北千島ホロムシロ島磐城地区防衛の任に就かされた。

 「先」部隊は一九四三年の春、弘前でアリューシャン増援部隊として編成派遣された「轟」部隊(旅団= 約六千名の機動部隊)から分離した独立部隊であった。「轟」部隊はホロムシロ島に到着した時、アッツ島守備隊は玉砕。キスカ島は「無血転進」と称して退却放棄していたためそのまま北千島防衛に当る事になり師団司令部や野戦病院、酒舗、慰安所のある柏原に駐屯していた。

 私は一九四五年三月初め「轟」部隊を訪ねた事があった。栄養失調になった戦友を野戦病院に搬送した際、 「轟」部隊にいる職場の先輩小屋敷清機関士を訪ねた。他の守備隊は雪に埋もれた三角兵舎や洞窟にこもっていた時、「轟」部隊は、漁場の飯場や倉庫を改造した兵舎に入っていた。その一ヶ月後、「轟」部隊は機動部隊であるが故に悲劇が待っていた。

 四月十三日に「沖縄に突入せよ」 と大本営直轄の命令を受け柏原を出港。四千キロ離れた沖縄に向け北海道厚賀近海を航行中、十九日の午前一時に米潜水艦の魚雷攻撃を受け護衛の海防艦もろとも沈没。上陸用筏や発動機船で脱出しょうと先を争う兵で大混乱し、角棒や軍刀を振るう上官がいるなど修羅場と化した。

 兵士八百余が海の藻屑と消え、腕のない兵士の水死体が浜辺に上がるなどした。海防艦乗船の旅団長も水死したが殆どの将校は助かった。脱出あるいは漁船に救助された兵士らに緘口令をしかれ二ヶ月後、徒手のまま沖縄へ向ったが沖縄はすでに米軍の手に落ち、薩摩半島開聞岳付近の防御陣地構築中に終戦となったと言う。この悲劇は小屋敷先輩から復員後に聞いたが、先輩は自分史に記録し、一九九四年三月三十一日付「東奥日報」紙にも報じられている。

 「先」部隊は青森県・北海道出身者が七割を占め、配属された歩兵砲中隊にも八戸市近辺の出身者が十名以上もいて、思い起こすだけでも中村(八幡町)、名久井(番町)佐々木(白銀)林(種差)久保(倉石) 获沢(倉石)竹森(名久井)などの古年兵や新兵の方がいた。

 私が徴集された頃、日本軍はすでに一九四三年五月にアッツ島守備隊が玉砕。七月にはキスカ島から退却(その一年前のミッドウエー海戦で連合艦隊は敗北で多大な損害を受けていたことが後で知った)と戦勝気運に暗雲が漂い、北千島に向う時は制海権も米軍に操られていた。輸送船(日本郵便のブエノスアイレス丸という最新の貨客船であった)を護衛するものも速力8ノット以下の日露戦争時の哨艦「信濃丸」で石炭を焚いて走っていた。携行した武器は所謂ゴボウ剣と十人に3丁ほどの三八式歩兵銃だけだった。

 北千島からアリューシャ列島にかけての海域は北半球でも最も気候の悪い海域と言われ、ホロムシロ島はソ連カムチャッカ半島に接したシュムシュ島に続き面積はほぼ東京都と同じく、地形も似ていて南北に一二〇キロの大きい島であるが人の定住できる所ではなった。しかし世界三大漁場の一つであり、北洋漁業基地の数ヵ所の漁場には漁船が停泊し加工場が建ち、夏場には数千人の労働者も居た。漁業の近くの守備隊は漁獲物のオコボレをいただき空腹になる事は無かったようだ。

《次号に続く》 (会員・東京都在住)