八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
会員文芸欄 内田百閒の魅力
川守田礼子
うだるような烈暑が幻に思えるほど涼しい季節となりました。往く夏を惜しみつつ、虫の音や野の草花に一足旱い秋を感じ、しみじみとした情趣に浸るのもよいものです。中には「読書の秋」を先取りすべく、はやお目当ての書籍を手に取ってらっしゃる方もいるのてはないでしょうか。今回、勝手ながらお勧めする小説は、「内田百閒(うちだひゃっけん)」です。
その理由は、一つ、短編が多くどこから読んでも楽しめる、取っ付きやすく中断しやすい、私のような浮気な読者もすんなり鷹揚に受け入れてくれます。
二つ、全集が何と文庫本で読めます(手持ちのものはちくま文庫『内田百閒集成』全十二巻です)。謹厳な読書家の方には叱られてしまうかもしれませんが、秋の夜長、寝転んで読書という究極のリラクゼーションにはまさにお誂え向きといえましょう。
三つ目は、読後の妙味、です。他にはない不思議な味わいが残ります。私は一言で「夢の味」と呼んでいますが、儚くて掴みどころがなく、それでいて妙に心を捉える魅力を持っています。
夢仕立ての小説といえば、夏目漱石の『夢十夜』を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。百閒の夢の小品集『冥途』と比餃され論じられることも少なくありません。実は百閒は、東大独文科在学中に激石門下となり、激石没後の全集編纂校閲において、森田草平らとともに大きな功績をあげた人物なのです。激石門下にあって、激石の中の幻想的な志向を正統に引き継いだのは百閒だけだとの見方かある一方、激石から知性を引き算すると百閒になると辛口に評する批評家もいるそうです。私のような百閒ファンにははなはだ耳の痛い言葉なのですが、くだんの『夢十夜』と『冥途』を比べてみると、あながち外れていないようにも感じられるのです。というのも、語られる夢そのものの質がまったく異なるからです。激石のは、小説の構造に確信犯的に取り入れられた理知の夢といった印象であるのに対し、百閒の作品にはそれとは異なる、純粋な夢の手触りがするのです。百閒作品加持つ「稚気」ゆえにより夢の本質には近いとでも言ったらよいでしょうか。前述の『冥途』の冒頭は、暗い土手の描写から始まります(百閒の小説にはなぜか「土手」が数多く登場します)「私」は土手の下の一膳飯屋に腰掛け、隣席の一群の話を聞くともなく聞いています。
すると私は、俄にほろりとして来て、涙が流れた。何という事もなく、ただ、今の自分か悲しくて堪らない。けれども私はつい思い出せそうな気がしながら、その悲しみの源を忘れている。
(前述『内田百閒集成』全三巻 10ページ) いつかどこかの夢の中で自分が実際に体験した心の動きであるかのようなリアルさをもって、私はこの一節を読みました。夢の主入公である自分自身ですら置き忘れられたような、何かにはぐれてしまったような不確かで甘美な感覚。
芥川龍之介が次のような評を書いています。
試石先生の「夢十夜」のように、夢に仮託した話ではない。見た儘に書いた夢の話である。 他にも芥川は、「内田百閒氏」と題した人物記を雑誌に寄せており、「その夢幻的なる特色は人後に落つるものにあらず」と非常に高く評価しています。
紙面が尽きましたので、唐突ですがご紹介はこれまでです。これを機会に百閒的夢の世界に遊んでみませんか。読みながらそのままほんとの夢の中、というのもなかなかオツかもしれませんね。