八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
会員文芸・論壇 「占領期」八戸の新聞
小泉敦
「……都市計画委員会の計画によれば八戸市の都市計画は人口三十万人を目標としているが、現在の人口増加率から推算してより以上の人口収容力を有する都市の計画をしておくことも必要であり、更にこれに付随するあらゆる構想を今から充分研究しておかなければならない。都市の美観は区画の整理と道路の拡充整備、文化施設の三要素によって構成されるのであるが、区画整理と道路の整備拡充は都市計画委員会に委ねるとして、差し当たり市理事者及び市民の手で成し遂げなければならぬ問題は文化施設の完成である。なかんずく上水道の完成、下水道並びに燃料ガス、国際ホテル、百貨店、観光施設等が急務である……大八戸港の建設も百年□□をまつの類であることを市民は深く銘記し、国際都市の実現に努力すべきである」
これは、一九四九年(昭和二十四)三月二十一日に発行された八戸民報創刊号の社説「文化施設の急務を知れ」の一節である。八戸民報は小中野町大町二丁目の八戸民報社(編集責任者小澤和夫)が毎週月曜日に発行した週刊新聞であり、現在同年十月十日付二十八号までが「プランゲ文庫」に保存されている。
「プランゲ文庫」は、アメリカ合衆国メリーランド大学のマッケルデン図書館に所蔵されているゴードン・W・プランゲ・コレクションのことであり、一九四五年秋から一九四九年十一月までの約四年間に日本国内で発行されたおびただしい数の出版物が保存されている。この中には占領期に青森県下で出版された七十六タイトル、百二十三冊、約七千部の新聞や雑誌類も含まれている。ゴードン・プランゲはGHQ参謀Ⅱ部の戦史室に約六年間勤務した後、一九五一年秋にサンフランシスコ講和条約が結ばれるとアメリカへ帰国するが、その時、検閲資料をアメリカ陸軍のコンテナ約五百箱に詰めて、勤務先のメリーランド大学に持ち帰った。つまり「プランゲ文庫」とは、第二次世界大戦後、日本を占領した連合軍総司令部(GHQ)が行ったメディア検閲の結果として民間検閲局(CCD)に保管されていた資料群のことである。
プランゲ文庫最大の特徴は、敗戦から四年間の日本社会の変化を知ることができることである。戦後占領期に青森県内で刊行された雑誌や新聞も多く、占領期の地域史を知る一級資料といえる。
八戸では一九四五年(昭和二十)八月十五日に敗戦をむかえると、九月二十五日にアメリカ軍のポール・G・ミューラー少将率いる第九軍団、第八十一師団が進駐した。左肩に黒い山猫のマークをつけたワイルド・キャット部隊と呼ばれた三千余名の兵士たちは高舘の陸軍飛行場を接収してキャンプホーゲンと命名、アメリカ軍基地の建設に入った。
「プランゲ文庫」に所蔵される新聞の中で八戸で発刊されているのは、次の七紙である。①デーリー東北(一九四六年八月二十八日~一九四九年十月十四日)②三八城公論(一九四六年十二月十五日~一九四九年四月二十九日)③平和公論(一九四七年四月二十五日④八戸新報(一九四八年三月二十一日~一九四九年二月七日)⑤夕刊はちのへ(一九四八年六月二十二日~一九四八年九月二十一日)⑥八戸民報(一九四九年三月二十一日~一九四九年十月十日)⑦青南新報(一九四九年六月二十三日~一九四九年八月二十九日)
この中から、数点を紹介してみよう。「敗戦国日本は鉄の産地たる朝鮮を手放し、アルミニウムの産地たる満州を失い、石炭の産地樺太を無くした。何一つとして軌道に乗っているものはないが、ただ一つ世界的視野からするも日本的視野からするも順調に行くと思われるものに、主要食糧としての米麦の増産があるのみである……今の内に敗戦日本の新農村形態に切り替えて名久井の農民悉く備えて、この有史以来の農村大恐慌を切り抜けることを今の内から準備せねばなるまい」(「農村経済大恐慌」平和公論五百七十一号 一九四七年四月二十五日)
「八戸の遊廓は明治の末年まで小中野新丁、今の松屋旅館の向近所と鮫石田家付近にあったが、明治四十年頃浦町と新地へ移転した。鮫は自然に廃業して今では跡かたもなくなった。掛け行灯が石油ランプになり、電灯からネオンライトにまでモダン化したがそれも束の間、今じゃ女郎も解放されて自由販売、無貞操、無軌道、無恥無残な花粉を撒き散らしている女が沢山」(「廓の噺」三八城公論八号 一九四七年十一月十二日)
「五戸町南部鉄道株式会社では八戸港発展に寄与する為に本年から向こう五ヵ年計画で尻内種差間十七・四粁の電気鉄道を敷設する事になり、目下増資株即ち第四新株を募集中である。同社の路線敷設計画では三戸郡上長苗代村尻内から同郡館村田面木を経由して八戸市内に入り糠塚、類家、小中野、湊、白銀、鮫を経て種差に至るが、その間の乗降駅の予定地は現在会社で経営している五戸線尻内駅を起点駅とし田面木、売市、高等学校前、八戸、小中野、白銀、鮫、種差の九ケ所で一市二ヶ村にわたる主要中心地が選ばれている。これは将来これなど関係周辺地を合併して大八戸市建設の前提をなすものとして関係地方民は南部鉄道の犠牲的計画に感謝しなければならない……本来ならばこの電車計画が都市発展の直接恩恵を蒙る八戸市民によって行わるべきであるにもかかわらず、それをなさず横合いから出て来たからといってとやかく云うか如きは厳につつしみ、市民が挙って賛同し、市営バスの路線を交通網の行き届かぬ方面に活用するよう変更しても、南部鉄道の計画が一日も早く達成するよう協力すべきである」
(「社説 南部鉄道の電車計画に協力せよ」八戸新報六百七号 一九四八年十二月十三日)
「去る十日は時の記念日であったので時に関するいろいろな行事が各所で繰り広げられたが、時間観念の乏しい八戸地方民に記念日の行事が果たして役立ったかどうか甚だ疑問である。従来八戸人の間には全国共通の時間の外に八戸時間という特殊の時間が今なお利用されているが、この特殊な八戸時間とは例えば何かの会合のある場合に定刻を遅れること一時間以内は遅刻の取り扱いを受けないという極めて呑気な時間だというのである。こんな関係から八戸地方に於ける諸会合は予定された定刻に開会された例が殆どなく、一時間乃至三時間遅れて開会されるのが普通であり、定刻に守られているのが官公衙、会社、工場の終業時間のみという誠に皮肉な現状である。この悪い遅刻習慣が民間だけの諸会合のみだったら兎も角として、諸官庁のお歴々の会合でも平気で特殊な八戸時間が用いられているのだから全く呆れるの外ないのである……時間の尊さを一日でも多く認識してもらうための記念であることに深く思いをいたし、お互いが反省し八戸時間を根絶すべきである」(「社説 時の記念日と悪い八戸時間」八戸民報十二号 一九四九年六月十三日)
今後、「プランゲ文庫」に収録される八戸関連の新聞や雑誌類を丁寧に読み解くことで、これまで明らかにされていなかった「占領期」八戸の政治・経済・社会・文化の諸相が浮き彫りにできよう。 (八戸市史編さん委員会委員)