八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
憲法草案(十四条・二十四条)作成の経緯を中心に「自分史」を語る ベアテ・シロタ・ゴードン講演会
八戸ペンクラブが後援したベアテ・シロタ・ゴードン女史の講演会は、十月二十日十八時に開会。八戸商工会館の三階大ホールをほぼ埋めつくした四百人の聴衆は大きな感動にどよめいた。
女史はウィーン生まれで、ピアニストの父が山田耕筰の推挽によって東京音楽学校(現東京芸術大学)の教授として赴任したため、五歳から十年間を東京で過ごした。ユダヤ系であったため母国に帰れず、米国の大学を卒業後、戦争情報局や『タイム』誌で働き、六カ国語に通ずる。第二次大戦後GHQの通訳として再来日し、軽井沢に住んでいた両親と劇的な再会を果たす。
一九四六年二月、二十二歳で日本国憲法草案の人権条項の作成にかかわる。
女史は、戦前の日本女性の無権利状態を実感し、世界各国の憲法条項を精査して日本女性の幸せは何かを熟慮しながら女性の基本的人権のすべてを盛り込んだ条項を作ったという。つまり、男女平等はじめ結婚、離婚の自由選択、女性の財産権、相続権、妊婦の保護や非嫡出子の権利の規定などである。最終的には生かされなかった部分もあったが、両性の平等を保障した憲法の十四条や婚姻は両性の合意のみに基づいて成立するとの二十四条に案文が残っている。
この際反論した日本政府代表は、「日本女性の状況をよく知るシロタが書いた」というGHQ側の助言で納得したという逸話が残っている。
その後はジャパン・ソサエティやアジア・ソサエティの責任者となって、日本とアジアの文化発展にかかわる活動を展開する。市川房枝や棟方志功のエピソードをユーモアを交えて語り、聴衆を湧かせる場面もあった。
講演会終了後、午後八時四十分から同会館六階の八戸大学総合研究所会議室に有志が残り、八戸ペンクラブ主催の懇談会が行われた。司会進行役は島守光雄会長が勤めた。
十ぐらいの質問があったが、そのどれにも流暢な日本語で答えられた。主なものとしては
- 男女平等はその本場といわれる米国でも万全でなく、平均賃金で男性に対して女性はその八十%程度(日本では六十五%)である。また男女平等の修正案が州議会のすべてで批准が得られているわけではなく不十分である。
- いまの米国は現実主義・商業主義が非常に強まって、大学でも文化的・理想的な面がおざなりになっている。そこからブッシュのような大統領が誕生することになった。
- 乃木坂の戦前の住居隣りに原信子が居た(女史は原信子が八戸出身とは知らなかった)原さんから真珠の首飾りを初めて頂いたので記憶が鮮明にあり、かつてその愛犬にかみつかれた傷跡が未だに足に残っている。
- 日本国憲法に男女平等条項を書き入れた事情は、極秘事項と申し渡されていた事、しかも二十二歳の米国娘が主張したとなれば日本人の反撥があると考えられた事がら黙秘していた。
- 人権条項を作成する際に、米・仏・スカジナヴィア諸国の憲法なども参照したが、特に示唆を受けたのはソビエトとワイマールの憲法であった。
- もし、米国で憲法を改正するようなことがあれば、女史白身としては戦争放棄条項を盛り込むように主張するつもりである。日本では同じく平和憲法を持っているコスタリカとは逆方向に走るようで大変心配である。いまの憲法改正論議は、「パンドラの箱」を開けるようなもので、好ましい結果を生み出すことはないだろう。
- 日本には米国の情報が詳しく伝えられているが、逆に日本のことは米国人にはあまり伝わっていない。フジヤマ・芸者程度なのでジャパンソサエティなどで伝統的なものからモダンに至るまで日本のあらゆる姿を伝えようといまでも努力している。