八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

八戸八景考(その二)

三浦福壽

 石橋次常と安藤昌益は同時代を生きていた。次常が八戸八景の和歌を献額奉納した延享四年(一七四七)に、昌益はすでに八戸藩城下の中心街区にある櫓横丁に居住していた。

 昌益の居宅先が定まった延享元年(一七四四)の十二月、四十ニ歳の昌益は足跡を辿り辿りしながらその思考内容を、天聖寺に設けられた会場で講演におよんだ。数日間にわたっての講演は参加者に深い感銘を与えたとみられ、その断片を示した記録も残されている。

 次常がこの講演内容の情報を得ていたかどうかは無論わからない。だが、昌益の弟子の多くが各階層の有力者で占められていたことからするとそれは把握していたとも考えられる。

 次常と昌益が生きた近世中期の八戸藩の財政は窮乏の一途をたどっていた。

 その原囚は凶作と災害の多発にあった。当時。江戸や上方の消費経済に対応した藩の大豆の作物増産方法に無理があった。くわしい内容は別の機会にゆずるが、その結果いわゆる「猪飢渇」を招いてしまい。連鎖して大凶作を引き起こしてしまったのである。

 ともあれ次常と昌益の眼前に最悪の状況が映し出されたのである。昌益の場合はその状態のなかで思想形成をさらに深めていったとも考えられる。

 次常の場合、その現出された一切を無為化することによって、自分を責め立てることはしなかったと考えてよさそうだ。もののあわれを思考することはあっても、表情を曇らせないで生きられる歌人がいてもおかしくない。

 とはいえ八景の内容とその歴史的周辺状況が気になるところである。

 次常の献額を再録した小井川潤次郎は、額の一部が朽ちて判読できなかった箇所は○○の記号を用い、解らないとしてある。特に序文に傷みが多く四箇所ほど○○記号で記されている。その序文を除いた八景をさらに再録してみよう。

・小中野落雁  霞たつ野田の田つらを遇かてに やすらふ雁やかへさわするゝ

・菖蒲田夜雨  行さきはいつこあやめわかぬ夜に ○○○○雨の音そひまなき

・種市岳(嶽)秋月  立ちのほる高根を名にも秋の夜の 月やうへなき光見すらん

・小田平暮雪  暮れかかる空ともわかて積りにし 雪の光にむかふ岡野辺(邊)

・来(來)迎寺晩鐘  紫の雪路をつゐの名にしそと かねてや告る入相の声(聲)

・地蔵(藏)堂夕照  ところ得てさぞや光もにほやかに 入日を法の庭の夕はへ

・蕪ケ島帰帆  風よとむ島根をさして泊とや つれしほかけも近き友船

・沼館(館)晴(晴の月が円)嵐  立きほふ霧吹をくる嵐にも 残(殘)る煙や里のにきはひ  

 次回は八景の一つ地蔵堂を中心にその歴史的情景を照し出せればと思っている。