八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
会員文芸・論壇 安藤昌益を追って
三浦福壽
かつて私は東京の足立区に住んでいたことがある。二度、通算五年ほどの間だ。これはちょっとした訳があった。というのはお上りさんみたいと笑われそうだが千住辺りは上野駅が近い。銀座へ出るにも地下鉄に乗ると三十分余りで行けるし日光街道そばだからいざと言う時、首都圏脱出に時間がかからないからだ。実はここでもう一つの思いを潜めていた事を白状しなければならない。
「青森県政はなぜこれほど農業をないがしろにするのか」。減反政策が始まってその対応、あるいは原子力船「むつ」騒動、そしてむつ小川原工業開発計画のころを通し、常々こう思っていた。原子力船「むつ」は直接、農業との関わりがないが、漁業者には結構、負の部分を強いてきた。むつ小川原はもう、もろで農業者、住民から農地も居宅も根こそぎ奪い取る政策プランであった。
「これはひどい。農民の心を代弁できる者はいないのか」。そう思い続ける我が目の前にこつ然と現れたのが「安藤昌益」その人である。
昌益は近世日本が生んだ偉大な思想家だ。江戸時代、なぜか八戸に現れ十五年ほど町医者を営んでいた。仏教や儒学、朱子学、もちろん本草学、医学も修めたとされ大変な博識ぶりと研究者は舌を巻く。医者として腕も確かで遠野から来た流鏑馬の射手らが病んだ際、藩命により治したという記録も残るほどだ。
その思想の根幹は自然を尊び「直耕」の精神であると言っていい。曰く人は田畑を耕し、そして織る。万民は汗して働き平等であり男と女は二人で一人。「感和・妻合スルハ、及チ人ノ花咲キテ子ヲ結ビ…草本ノ花咲クト」。封建の社会にありながら「昌益はまた恋愛の賛美者でもあった」と惚れこむ研究者もいる。
ある時、農文協刊「安勝昌益の闘い」というタイトルの本を手に入れた。寺尾五郎の著書だが読んでみて八戸にこれほど重農的な思想、論者がいたのかと驚いた。その後、狩野亨吉博士やハーバード・ノーマンが「大思想家あり」とか「忘れられた思想家 安藤昌益」とし広く国中、世界に紹介した亊を知った。
私にとって北千住が深い意味を持つのはここからである。明治期後半、狩野亨吉が昌益研究に没頭するきっかけが実は北千住にあったのだ。
昌益の思想書「自然真営道」がなぜか“北千住の仙人”こと橋本律蔵によって秘蔵されていた。これが巡り巡って狩野博士の目にとまった。
そのことを知った私はいつか時間かあれば昌益追跡をしたいと密かに思った。だから、東京へ出たら千住に住もう…と決めていたのである。しかし、調査、探求の対象が近くにあればすぐ事が成るとは見通しが甘い。いつもほかの仕事やつきあいで日々を過ごしてしまうのだ。
あれから何年経ったのであろう。いま、そのチャンスともいえそうな機会に恵まれた。東奥日報の朝刊金曜特集で「安藤昌益 直耕思想いま再び」の執筆任務。三年ほど連載した「北の食彩」の後続版だ。これも通年企画でこれから昌益発掘、ゆかりの地探訪、研究者たち、思想の真髄にスポットを―と思っている。
それにしても、以前から昌益を追って来ていろんな人との出会いがあった。東京「安藤昌益の会」の石渡博明事務局長、「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」の相川謹之助会長、矢内信悟事務局長、秋田・大館「良中会」の山田福男さんら…。八戸では三浦忠司昌益基金会長、近藤悦夫医師、「安藤昌益資料館をつくる会」の根城秀峰会長ら。それに工藤欣一さんのように既に鬼籍となってしまった人たちも多い。
最近、各地の友人たちから[昌益連載、おもしろく読んでいるよ]と励ましの声をかけられる。が、やはりゆかりの地・八戸での反応は旱い。それに気をよくしたわけではないが昌益と関わる人に当クラブでの講演をお願いした。大館市比内の山田福男さんだがこの人は同市にある温泉寺で昌益の墓発見に立ち会った人。写真集「人間安藤昌益」という本の写真撮影者でもある。講演は八月、お盆過ぎを予定している。 (日本ペンクラブ会員)