八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

会員文芸・論壇 「八戸これは巷のはなしでございあんす」の話し

三浦福寿

 離職してしまい職業安定所(当時) と図書館通いの日々が続いていた時期があった。一九七二~七三(昭和四十七~八)年のことである。失業保険の給付金が切れ、有り金も底をつきはじめていた。

 知り合いの中里進氏が主宰していた北方春秋社に転がりこんだ。氏の住まい兼編集室は、長屋風の古びた家屋で吹上地区にあった。

 編集作業に没頭しながら数ヶ月。 氏の生活のどん底ぶりを目の当たりに見た。

 氏は弱音をはいている風にも見えず、さりとて楽しんでいるはずもなかった。中里史観の歴史家として生きているといった余裕すら感じられ、 その信念の強さは貧乏を打ち負かしていた。

 差し押さえに来たお役人がその困窮ぶりに困惑したらしい。翌日、菓子袋を持って差し入れに来たというオマケがついている。

 中里氏が発行していた「月刊アミューズ」は八戸印刷荷札(株)で刷られていた。私は割付けた原稿を携えて吹上とこことを往復した。

 当時この印刷所に出版部が創設され、意義あるスタートを切った。スタッフの面々は旧知の仲間が多く何かと頼りになった。

 そうしたおり、私にある企画のはなしが舞いこんだ。それが「八戸これは巷のはなしでございあんす」という今までになかった長い題名のついた本の装幀と挿画の依頼であった。

 口述筆記体の内容で、語り口は興味深い内容に包まれていた。一気呵成に読んでしまうほど、その魅力に押されての受諾であった。

 九十三歳の林悦二郎さんの語り口を丁寧にまとめあげたのが関下まり子さん。印刷兼発行元であった八戸印刷荷札出版部の一員として彼女は跳びはねながら活動したのを昨日のように覚えている。

 挿画は考証を必要とする内容が詰まっていた。調べ物はさして苦でなかったが、間違って描いてはならない気持ちが先立ってか筆が思うように運ばないことがあった。

 「月刊アミューズ」 の編集と並行しての絵の作業に図書館が重要な位置を占めていた。わけても郷土資料室の存在は大きかった。

 図書館は当時、長根スケートリンクの入口にあった。資料室に出入りするようになって西村嘉氏との出会いがあった。その博識さに驚愕したことが再三再四あった。 西村氏の話し振りから八戸中心街の形成などのイメージが増幅していった

 西村氏の助言が仕事をスムーズに運ばせてくれていたように思える。

 ある日の朝、「中里君居るかい」という声が玄関先に響いたのを聞いた。 話し声は聞き取れなかったが訪問者の声はうつろながら覚えがあった。

 前日、炬燵にサントリーレッドのウイスキーを立てての飲み会があった。朝方まで話がはずみ過ぎ寝床に帰らず、炬燵に寝入ってしまい、意識がもうろうとしていた。

 あとで声の主は西村氏であったことが分かっていぶかしげに中里氏に聞いたところ、西村氏と中里氏は八中の同級生だと解った。

 発行昭和四十八年十一月十日、口述者林悦二郎、編集責任者関下まり子、装幀・挿画三浦福寿による長いタイトルの冊子が刊行された。その前年の札幌冬季オリンピックや浅間山荘事件が解決し、やれやれと思った矢先に第一次石油危機が日本を襲った年の発刊になった。

 私といえば相変わらずハラペコの状態を保ちながらのありさま。ところがこの一冊で拾う神がいることを初めて知った。 (イラストレーター)