八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
会員寄稿 八戸ふるさとづくり 八戸市史を編纂して、八戸のこれからを発見する
本田敏雄
今年は平成29年ですが、明治150年です。時は早く、人類の発祥からみれば150年間は大した時間ではありません。しかし、この150 年間、ことにその前半は世界中が「人間とは殺し殺されるもの」を自覚した激震の時間でした。
日本は根底から変化しました。そしてあれだけ長期に渡って戦争を繰り返して来た日本は、後半の七十年間、一度も戦争をしていないのです。 それは人類英知の奇跡です。それは、 半信半疑でしたが、近年急速に「信」 が増してきました。日本を訪れる外国人の急増がそのなによりの証です。
奇跡の大本は、日本国憲法です。 この憲法とそれによる日本人の平和維持に気がついた世界の人々は、いま改めて人類の英知とはなにかを検証しています。自衛権の放棄はない、ということで自衛力が高められましたが、これは朝鮮戦争の苛烈さにおいて占領軍アメリカの指示とリードによるものです。しかし外交的な駆け引き交渉を見ても、戦前と戦後は劇的に変化したのです。
明治憲法と昭和憲法の「二つの時代」を生活してきた方々は、明治、 大正の風情を父母、祖父母のおもかげとともにふと懐かしむことはあっても、明治憲法下の強権的な官憲が市民を取り締まり、思想表現を制限するような、社会的組織を「よかった」とは決して言わないのです。これは、300年の江戸社会を、映画などで鑑賞しても、そのころの身分制度のかたくななあの社会組織を 「よかった」といわないのと同じです。
戦前、戦中、戦後社会は、NHKの大河ドラマでいいますと、戦国時代と幕末維新期がかわるがわる画面に出てきますように、やがて戦中戦後は繰り返しくり返しドラマとなる時代がきます。それくらいこの時代は重大な、歴史のハイライトなのです。だれが主人公になってもおかしくありません。
ところが、当の日本人の中でこの奇跡をそれとして評価しない人々が出現していることも事実です。それはそれなりの論理があるのですが、近隣外国の防衛力強化、領土の帰属問題などが出てきたからです。とはいえ、外交問題を武力で解決するなどという愚は繰り返してはなりません。
それは、戦前戦中戦後の生活を想起すれば言えるのですが、そこでこの時期を伝えるものは紙一枚といえども、おろそかにできません。そんなものが偶然出てきましたらどうぞ熟視してください。一番捨てるもの、たとえばチラシ、新聞が後世貴重な価値を生む資料となります。
市史を17年間にわたり編纂させていただいて、これを痛切に感じます。 すべてを後世に伝えることは不可能ですが、「これは」というものはどなたにもあります。
では、「八戸はどんなところですか」と中国や韓国、アジア各国から来られた方々に問いかけられましたら、みなさんはどのような「仮説」 を立てられるでしょうか。普段は、 そんなことを考えたことがない人も、ふと思い当たることがありましょう。
わたしだと、それは八戸の文教施設がかつての城跡から郊外へと移動したことかなと答えます。八戸の近現代史の誇りは、学校が最初に城跡に創られたことではないでしょうか。 八戸の人々は、権威と権力のシンボルであった城跡を、こどもや孫、 曾孫たちが学ぶ学舎にしたのです。一番小学です。
それをプランニングしたのは、天保年間(1830~43) 前後生まれのご先祖さんたちです。
そもそも城内には八戸藩の「学校」 がありました。ここに「一番小学」 を創り、旧制中学校と続け、昭和に入りますと商業、工業学校が出現します。明治天皇が仮官として宿泊された小学校の立派な建物は、のちに公立図書館となります。つまり、八戸の城跡は学校や図書館という知の場所であったのです。かつて武士が登城したところへ、身分に関係なく学童が通います。
ところが、学校は少しずつ郊外へ移されました。そして、40年位前だったでしょうか、八戸小学校が火事となったのです。これを契機として、城跡には学校は無くなり、いまその跡に公会堂や役所の巨大な建物が建っています。
それは、まちが発展するにつれて、 こどもたちが街中で少なくなった。 そこで学校の郊外への移転はやむなし、ということかもしれません。しかし、八戸の先人たちが人を育てるため一番適した地というスピリットを、現代人がふと忘却したのです。
激動の時代、八戸の先人たちは学校を城址に建設しました。それはこどもたちに、誇りと新しい時代の到来を意識させたのでした。
学校が城跡にあるのは仙台や金沢などです。そこに住む人々はこの知の拠点を誇りとしています。東京では郊外に出ていった学校がすこしずつ都心に帰りつつあります。高層ビルが大学であることが珍しくありません。八戸も、サテライトのみならず、郊外の校舎と連携した大学校舎ビルが中心街にある、ということになりましょうか。それは市民の人づくりの思想によるものです。
過去の輝きは未来の輝きを創ります。八戸市史「近現代資料」全6巻を手に取りますと、「八戸ふるさとづくり」のアイディアが湧いてきます。