八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
企画 戦後70年+1 終戦!「あの日・あの時」
島守正典
終戦を控え、私の家族は八戸空襲を逃れるため父の生まれた麦沢(現南部町福地村)に疎開していた。昭和二十年七月十四日だったと思う。 麦沢の高台から八戸港を遥か見渡すと煙が立ち込め、ときおり赤い炎が見えた。港が米軍の空襲に受けるのをこの眼で目撃した。七歳の子供であったが戦争の恐ろしさを初めて経験した。
八戸は要港で敵軍の格好の攻撃目標だったのである。「あぁ鮫が燃えている!」と父が絶叫した。麦沢から鮫に引越して漁業を営んだ父は鮫が掛け替えのない実質的な郷里であった。その後も戦争終結まで八戸港は幾度も空襲を受け、八戸の街なかに比べて戦争のキズは大きかった。つい最近、「蕪嶋神社」が全焼し心のふるさとが被った痛手は大きいが当時あった鯨会社の名残が消えてしまったのは悲しい。だが嬉しいのは、 いまも島に飛び交う海猫の姿と声だ。
麦沢の高台から終戦まで遠く八戸港を肉眼で連日見ていた。記憶は定かでないが、敵軍は七月十四日以降も要港八戸を攻め続けた。最後に見たのは八月九日の蕪島沖で海防艦 「稲木」が米軍グラマン機の砲撃を受けた、壮絶な戦いであった。その記録は故山根勢五氏の記述に詳しい。 なにはともあれ幼少の自分が見た八戸空襲は、いまも自分の脳裡にはっきり残っている。それが小生にとっての生々しい終戦の傷あとだ。
疎開先の麦沢から鮫に戻ったのは終戦八月十五日から一週間後のことである。空襲のキズ跡は想像を越えるものだったが、これで戦争も終わったと幼いながらも安堵した。私にとっての終戦の記憶である。
人間が引き起こした戦争のキズ跡は大きいが戦後70年のいま、蕪島はじめ、ふるさとの自然と景観は本当に貴重だ。最後に、こよなき憧れの故郷に捧げる一首を表わして私の想いを伝えたい。
「蕪島の明け空恋し うぶすなの如くなき景を 想ふ年の瀬」
(会員、神奈川県茅ヶ崎在住)