八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

会員文芸・論壇 八戸の香り

本田敏雄

 秋田市・旭川の畔から少し広めの道路に出たとき、道路脇に立ってかなたをじっと見つめている年配の方がいた。

 私は技術史の授業(多人数だが、 ゼミ形式にしている)で秋田の工学資源学部に毎年初秋に行く。技術構造や技術思想を学生さんたちに伝えるのだが、それは導入が肝心だから、 八戸の場合は大島高任(盛岡。幕末維新期の冶金技術者)と岩泉正意・渡辺馬淵(二人とも八戸。大島高任のもとへ留学)などの関連を取り上げる。秋田は島潟右一(大館。無線電話機の発明者。京大教授) や物部 長穂(大仙。ダム建設)、そして「糸川英夫」である。

 糸川博士は、戦中は「陸軍の一式戦闘機・隼」の開発者、戦後は東大の先生、秋田の海岸でペンシルロケットの実験をした人である。昨年は、先生のお名前にあやかった小惑星「イトカワ」とそこから地球に帰還した「はやぶさ」が授業導入の追い風となってくれた。

 このような工学技術者たちの技術展開とは別に、私は、学生さんたちが、生活や仕事の根幹である農業や水産などの技術について、ユニークな視点と成果をもてることを心がけている。

 技術は「就地取材(そこにあるものを用いる)」。授業二ヶ月前になると、私は「生まれ育ったところの、 これはおもしろい、と思う写真を一枚持っておいで」と学生たちに呼びかける。具体的には田んぼ、米、酒、水路、丸木舟、漁、曲げわっぱ、鉱山関連、竿灯祭(倒れない制御)などが期待できる

  しかしほっておくと、学生たちはネット情報にのみ依拠するから、私は「歩く。物をよく見る。父母や祖父母、自他の研究室の教授ら人と話をする。メモする」といい続けてきた。

 この過程で学生たちは「技術とは何か」「独創とは」「技術を生かす技術」「技術は人だ」などを問い始め、 既成の情報の限界を知ることとなる。 私が秋田の旭川近くで偶然お会いしたのは屋根板金業の方であった。

 夕暮れであったので、私は「こんばんは」と言った。すぐ「おばんです」と応じてくれた。昨年の事である。 「なにか見えるのですか」 「職人の帰りを待っています」 「技術者の方ですか」 「板金塗装です」

 かれは道路に面した工務店を指差 した。屋根の板金と聞いて私はどきりとした。 「社長さんですか」 「五十年仕事をしています」 「私は八戸からきました。学校に動めていました」 「八戸に行ったことあります」 「八戸の板金塗装屋さんをご存知ですか」 「わかりません」 「八戸のことですが、朝、年配の方が来て、お宅の家の樋が垂れているので午後直しにくる、と言ったのです。私が問い返す間もなく、その方はさっと車で行かれました。私は???となりました。

 昼過ぎ、音がしましたので外へ出てみますと、作業用の車が止まり、 職人さん風の方が私の家に梯子をかけるところでした。そこで、今朝どなたかが来て樋を直すとおっしゃったのですが、あなたはどなたですかと聞くと、あれは社長です。私は社長に言われて樋を直しにきました、と言ったのです」 「最近家を建てたのですか」 「三年前にリフォームしました。」 「職人は自分が関わった家を観て回って、壊れていたら一回は直すのです。雪の重さで樋は垂れていたのでしょう。春先に」 「三年経っています」 「そうですか」 社長は、それをごく当然として私に話した。工事保証ということであろう。

 この出会い以前に、私は生粋の八戸の方に板金屋さんからサービスを得たことを話したところ、「八戸ではそういうことはあるよ」と教えてくれてはいた。しかし、屋根工事をした会社の社長がその後の状態を見て回って壊れていたら直すなどとは、 つゆ知らなかった。八戸に四十年住んでいて、新築・増築もしたが、それは初めての経験であった。八戸の香りをいただいたのである。

 私は秋田の路上で「板金塗装屋」 の社長に偶然出会ったので、八戸での素晴らしい経験(八戸の香り)を少し昂揚して話したのである。秋田の社長が笑顔になられたので、私は勢いづいて「板金や塗装技術のコツはなんでしょうか」と不躾に聞いてしまった。私はかくかくしかじかでいま秋田にきています。学生にも伝えたいと付け足した。

 路上の話なのだが、社長はごく自然に「三年ばかりうちの会社に来てみますか」と言った。私はまたどきりとしたが、技術はやってみて体感しないと身につかない。とにかくやってみなさい、ということである。

 世の中には、工事をした家の壊れ状態を見て回っている人がいる。道の脇に立って職人さんたちの帰りを待っている人がいる。それが何なのか。それを一瞬のうちに悟れないものには「技術云々」の会得は永久に不可ということであろう。

 「三年ばかり・・・・・・」とした社長の心意気。私はその意味がすぐわかった。 秋田の香りである。

 向こうから作業車がライトをつけて帰ってきた。社長は職人さんたちを迎えた。いつもそうしていることがわかった。

 私は別れをつげたとき、ふと「鳥が選んだ枝、枝が待っていた鳥」という河井寛治郎や、「人皆自然生(ひとみなひとりして生きるなり)」とする昌益が頭に出てきた。寛治郎は昭和の陶芸家。昌益は江戸中期の医師。

 かれらに陶芸や医学について問いかけたら、「三年ばかりうちにきてはどうかな、と言うだろうな」、私がそうつぶやいたので、すれ違った人が私を見た。