八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
会員投稿 ―日本近代化の幕開け跡― 富岡製糸工場と碓氷峠への旅
三上秀光
上州(群馬県)と信州(長野県)の山々が色づき始めた十月末。東京都小平市の保険生協組合が企画した 「明治の産業遺跡見学」 バスツアーに参加したが見学だけでなく九十年の人生でめったに起こり得ない奇緣に遭遇、楽しい思い出となった。
目指す富岡製糸工場と碓氷峠旧信越本線跡は永年行って見たいと思っていたところだ。
明治初期、日本資本主義発展に大きく貢献した日本近代化の幕開けを示す跡である、富岡製糸工場群は平成26年度世界遺産登録候補地といわれている。また、碓氷峠は平成9年長野新幹線開業によって廃線となった。明治26年開業の旧信越本線横川 ~軽井沢間の日本鉄道最急勾配線路跡のことで、両方ともしばしばテレビで放映された。
富岡製糸場ではボランテイアから、明治5年官営で創設、のちに民間(三井、片倉)に払い下げられたが昭和62年まで115年間創業され、 工場建物群が5町歩余りの敷地にほはそのまま残されてある。と説明され、フランス人技術指導者らの指導があったとは言え、煉瓦など建築材も初めての未経験の日本人職人が、 よくも造ったものと感心させられた。 当時世界最新最大の工場だったと言う。
製糸(繰糸)場(長140㍍、巾 12㍍、高12㍍、柱のない広い空間に採光ガラス窓。蒸気抜き屋根に 300台の繰糸機設置)を挟んで東と西に巨大な繭倉庫(木骨赤煉瓦造、 長104㍍、巾12㍍、高15㍍)、がコの字型に建ち、その中心にボイラー、乾燥場、貯水タンク、周囲にはフランス人指導者らの居住館と検查人館、日本人社宅、女工寄宿舎の他従業員の為の診療所、病室まで残されていて殆どが国の重要文化財に指定されていた。
フランス人居住館などは、フランス人帰国後は女工たちの夜学校として利用され、企業内教育の先駈けになったと言う。
その日本初めての近代産業の15~25才の女工たちの多くが士族の子女で、技術習得女工として募集され、 技術終了後は地元に帰り、各地に設立された工場の指導者になった。フランス人と共に就業したから8時間労働で待遇も良く「女工哀史」に語られるような冷遇は無かったと聞かされた。
ただ残念だったのは、創業時の蒸気機関操業の機械設備から電気操業に変わり、昭和41年には日本技術者発明の自動操糸機(現存)となり、 創設時の機械が見られなかった事である。
碓氷峠は誰もが知っている日本最急勾配の67バーミリ(千分比=1㌔進むごとに67㍍上る、15分の1のこと。 旧国鉄では単にミリと表現。他に33㍉=30分の1が奥羽線庭坂峠や25㍉=40分の1が東北本線など数ヶ所に)の線路のあった信越本線横川軽井沢間のことだ。
普通の蒸気機関車は雪や勾配に弱く、登るのは33㍉が限度で、碓氷峠では線路真ん中にラックレールを敷いて特殊機関車の歯車と噛合せ、所調アプト式(スイス人技師アプトが考案)で運転した。その区間は11㌔ と言うから600㍍位登ったことになる。
普通の蒸気機関車は2シリンダー (4サイクル、3シリンダーもあった(C型53型)だが、アプト式蒸気機関車は4シリンダーで、外側の2シリンダーは普通レール走行用の動輪を回し、内側の2シリンダーは機関車下部に設置した歯車を回すもので、 動輪は3軸、直径は粘着力を増す為、 900ミリと小さく、牽引力は碓氷峠で客車3両(後年マッチ箱と呼ばれた)、ブレーキ装置は急勾配の為、 普通のブレーキ2種(手ブレーキと真空ブレーキ)のほか、バンドブレーキとシリンダー反圧ブレーキの4種を設置したと言う。私は、付け足した2種のブレーキがどんなものだか知らない。
アプト式蒸気機関車は明治45年アプト式電気機関車に置き換えられ、 昔のアプト式蒸気機関車は見る事ができない。
旧国鉄の「鉄道員」であった私には見学・憧れの場所だったので、 120年前に造られた「めがね橋」 からの線路跡(「アプトの途」と称し観光用に整備) 1.5キロを色づいた樹間から山や谷底を眺め、皆と楽しみながら歩き通すことができた。
思い越こしたのは、日本鉄道(株)機関方罷工が起きた明治31年、当時副社長だった旧長州藩殿様毛利重輔が罷工処理の内紛から辞任。その3年後、軽井沢別荘に行くため乗車していた列車が、この碓氷峠のトンネル内の機関車故障で逆走(当時、貫通ブレーキは無く客車1両ごとにブレーキマンが乗っていた)、慌てた殿様が飛び降り事故死した事、どの場所だったろうと思った事である。
奇遇とは、ツアーバスの隣に同席した間野裕次郎さん(仲町在住)との出会い。初対面の挨拶から、生まれは同年、軍隊歴は私=青森県、現役徵集、北方軍北千島で地下壕生活で終戦。開野さん=秋田県、学徒出陣、朝鮮軍で終戦。
シベリア抑留は私=昭和20年10月入ソ、ウラジオストック第10収容所他2ヵ所、復員24年10月。 間野さん=昭和20年12月入ソ、ウラジオストック第10収容所他3ヵ所、 復員24年12月で、共に帰国復員は最後の方。2人ともウラジオストック第10収容所他に居た事が判りで驚く。
軍隊や捕虜生活のことから戦後の話まで花が咲いた。
間野さんは戦後、電気設備関係の会社で75歳まで働き、秋田県・青森県・十和田市にも毎月のように出張し、退職後は蝶類学会に入会、趣味の蝶類収集や研究に世界10ヵ国余りを巡り、標本は郷土の秋田に寄付したと言う。
奇遇を知った帰りのバスの中はどよめき、「長生きして良かったネ」 と言われた。間野さんとは再び逢うことを約束して別れたが一生の思い出になる旅だった。