八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

蕪島は「震洋」特攻基地か

島守光雄

 昭和30年代に上空から撮影された蕪島全島の写真がある。

 島への吊橋はあとかたもなく消え、 地続きになっている。さらに海軍の震洋特攻基地らしい五本の坑道あとが残されていた。

 海軍の特攻兵器には、神風特別攻撃隊に使用された「零戦」などの航空機や水中特攻兵器としての「回天」 や、「海龍」・蛟龍という特殊潜航艇のほかに、水上特攻兵器としての「震洋」がある。

 「震洋」とは、トラックのエンジンをのせたベニヤ製のモーターボートの船首に炸薬をつめ、敵艦に体当たりをしょうとするもので、終戦までに合計6200隻が完成している。

 海軍は昭和二十年七月末までに、 日本列島の太平洋海岸地域の約40か所に本土決戦のため、震洋を中心とする突撃隊を配備した。これに組み込まれた数は、蛟龍七四隻、海龍二七六隻、回天一二二隻、震洋二九一五隻といわれている。(ただし大湊警部府管内は未配備とあるのでこの統計には含まれていない。東北・北海道地区については資料が未発見である)

 配備の規模を静岡の伊豆半島を例にあげてみる。

 伊豆半島のうち西伊豆地域に第15 突撃隊、東伊豆地域には第16突撃隊がそれぞれ配備された。本部を沼津市江ノ浦においた第15突撃隊は、以下の5地区に合計70基を超える濠が掘られ、最大の規模を有する基地といわれた。

 すなわち江ノ浦地区には蛟龍格納濠3か所、回天格納濠3か所、多比地区には震洋格納濠3か所、回天格納濠5か所、口野地区には回天格納 濠一か所、震洋格納濠一か所、魚雷艇格納濠一か所、重寺地区には海龍格納濠6か所、震洋格納濠3か所、 重須地区には海龍格納濠4か所が短期間に整備がすすめられた。合計で、 震洋75隻、海龍24隻、回天9隻が集められた。

 一方、第16突撃隊は本部を下田市に定め、下田市和歌の浦、南伊豆町小稲、手石、長津呂、東伊豆町稲取、熱海市網代、神奈川県真鶴に基地が構築されていた。特に長津呂は震洋の大基地となり、現在でも沢山の濠が残っているが、ここには震洋 150隻、海龍12隻回天10隻があった。

 戦後、海軍兵学校から放り出された私が戦記本を開いてみたら、当時の海兵在校生は「震洋特攻」に当てる予定であったと記されていた。これは初耳だった。

 当時の海軍兵学校は分校を含めて四校あり、在校生は約一万名に達していた。用意された6200隻に丁度員数的に見合うのである。海兵では陸上で爆弾を抱えて戦車に飛び込む訓練のほかカッター訓練や遊泳などが中心であった。戦争があと一年続いていたならば、私も間違いなく鬼籍に入っていたことであろう。

 ところで、蕪島の格納濠らしい五本のつめあとは、伊豆半島の震洋基地に比べるといかにもお粗末過ぎる。 基地構築のための試し堀りだったのであろうか。また大湊警部府の記録が一言も触れていないのは何故であろうか。

 蕪島、階上一带、種差海岸などが、 今年五月「三陸復興国立公園」として編入指定された。単にこれをことほぐだけでなく、戦時においてどのようなことあったかを調査してみることも必要ではなかろうか。