八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
特別原稿 鮫神楽『墓獅子』考 掛唄を解く
柾谷伸夫
唄を契機に亡霊が出現する物語としては、中世から近世にかけて成立した古(奥) 浄瑠璃に『小幸物語』 や『浄瑠璃御前物語』がある。
同様に、『墓獅子』の掛け唄でも、「東方は」から「中央は」までの間に、 獅子頭に仏(霊)が降りてきて、化身として権現に昇華する。即ち、唄によって死者を招き、唄によって死者と言葉を交わし、唄によって死者の成仏をあらわすという呪術的な役割を獅子頭が果たすことになるのだ。
「茶の木には」では湯飲みの水を飲む、「桜木を」では花を噛む、「白銀を」 では柄杓の水を飲む仕草をする。ここまでは、獅子頭が供物を手向けられている死者を表している。「酒呑まば」では掛け唄の音頭取りが墓石に水をかける。「恋しさに」の一と三は死者に対する生者の強い想いが唄われる。三の唄で、獅子頭が幕で顔を覆って泣く仕草で、生者の涙が溢れる。二には両者の想いが込められている。「立つときは」と「極楽の」 では、心配するなという死者の生者に対する優しい想いが、「闇の世に」 と「我が親は」では、生者の亡父母への深い悔恨の情が読み取れる。見事に生者と死者による唄の掛け合いになっている。そして最後の「西見れば」で死者が成仏する態が唄われ、 この供養が果たされることになる。
これは、一神教にはない、古くから脈々として受け継がれてきた神仏混交の風習である。まさに日本人ならではの生者と死者の交流。全く日本的と言ってよい。
「天から落ちる玉の水」には神聖な力が宿るという。『浄瑠璃御前』 では義経と亡き浄瑠璃姫とのやり取りのなかに「いにしへの、こひしき人の、はかにきて、みるよりはやく、 ぬるるそでかな」がある。一休禅師の悟りの言葉として「闇の世に鳴かぬ烏の声聞けば、生まれぬ先の親ぞ恋しき」がある。イタコの口寄せの一節にも「闇の世」があり、また必ず「極楽の末木の枝には何がなる、 南無阿弥陀仏の六字がなる」が唱えられる。これらと『墓獅子』の関係を考究しなければならないが、少なくとも、純日本的な想いの糸が複雑に絡み合っていることは確かだろう。
今年の旧盆での『墓獅子』は、二日目の後半は雨になったが、例年より多くの依頼があった。手を合わせる遺族の方々の心に、唄と舞と囃子がしっかり届いていたように思う。
中嶋奈津子氏の論文『南部藩領内における死者祭祀に関わる神楽の事例』では、墓と供養の形態の変化、 信仰心の脆弱化、神楽組の後継者難等によって消えて行った墓獅子の事例がいくつか載っている。
鮫神楽も同様で楽観はできない。神楽連中の高齢化や後継者難という厳しい状況にあるが、なんとか続けていきたいものだと思っている。
(八戸ペンクラブ参与)