八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
戦争の思い出ふたつ
奈良孝次郎
わたしはつがる市の田舎の家に生まれ育ち、終戦の年(1945年) は小学校の六年生だった。だから戦時の様子はよく知っている。その中で八月の頃の思い出が二つある。
その年の七月頃から空襲警報があり、わたしの一家は村の中の家から畑に引っ越し、りんごの木に蚊帳(かや)を張り、寝起きしていた。家に は父が残り、その日はわたしがひとりで畑へ向かった。
その途中で米軍戦闘機の轟音がきこえ、突然「バリ、バリ」と機銃が発射された。歩いていたわたしが見つかったと思い、突嗟(とっさ)に草道に身体を投げ伏せた。わたしの身体は何事もなかったのだが、その際の青草の臭いと土の臭いを今でもよく覚えている。
その際の轟音はわたしを狙ったのではなく、下の田園を五能線の列車が通過しており、それを撃(う)ったのである。でもその時は本当に自分を狙ったと思い身体が震えた。
撃たれた列車は止まり、救助のために青年団が集められ六才年上の兄がそのひとりだった。列車の中では死傷者が数人、血だらけだったと後できいた。
もう一つは八月十五日のことである。
学校は夏休みだったが、六年生のわたしは当番のひとりとして学校に出て、玄関や廊下の掃除にあたった。十二時に終わって先生に礼をして帰ることになっていた。
時間になっても先生は来ない。わたしたち十人ばかりはその後も待った。やっと現れた男先生は目を泣きはらしていた。よく分からないままわたしたちは棒立ちになった。すると先生は「日本は大変なことになる」 といっただけで解散になった。「大変」とはどういうことなのか。
その後わたしはひとり白く乾いた道を歩いて家のある村へ帰った。村の入り口の家には当時では珍しくラジオがあった。中に何人かの大人がいてやはり泣いていた。「日本は敗けたぞ」と声が聞こえた。やっとわたしは事実を知った。
(会員)