八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
北千島での戦争体験記(下)
三上秀光
一九四五(昭和二十)年三月、最後の輸送船が柏原に入港。「先」部隊にも増援隊として「新臼砲」隊と「九二式」砲口一○センチカノン砲(皇紀二五九二・昭八)制隊。それに四八速射砲隊が四月に配備され、部隊の総出で洞窟陣地に設置をする事になる。
「新臼砲」は最新兵器で砲口径二〇センチ、砲身長一二〇センチの臼砲。砲弾は径三二センチ、重三三〇キロで、三部に分解し人力で搬送した。尾翼付で発射時に砲身の上で組立てて撃ち、射程距離千メートル。爆破半径四百メートルと威力あるもので、敵味方が友倒れする強力な新自爆兵器であった。
補充兵士は大半が関西出身者で、 四月とは言え、マイナス一〇度以下になる北千島の寒さに震え上がり、 凍傷者が続出する有様であった。
また、上陸して来る戦車戦用の自爆用として「カーリット爆弾」(カーリットか黒色火薬)の自家製造で準備し、それを抱えての強襲自爆訓練もしばしば行われるようになった。
八月十日、広島と長崎に原子爆弾が投下され、また、ソ連の対日参戦が知らせられた時、一両日中にも米ソ両軍との交戦で玉砕の覚悟が頭を横切りもする。
八月十五日晴天、別陣地で構築を応援作業の正午に、「畏くも玉音」放送があると告げられたが、状況不明のまま午後に突然、作業が中止となり陣地へ帰った。その夜に分隊長が中隊本部に呼び出され、敗戦を知らせられた。
しかし、ソ連には降伏していない、 九一師団はこのまま龍城を続ける。 「五年間の食料は確保してある」と告げられ、「玉砕はなくなったかも」 と兵士同士に安堵感が見えた。
無気味に三日が経った十八日未明に、突然、陣地の上空を飛び交う砲弾と烏帽子山の中腹での爆発音に飛び起きた。三五高地陣地からシュムシュ島とホロムシロ島の間の狭い海峡を見下ろすと一隻の軍艦が見えた。 師団司令部のある柏原湾方面からオホーツク海方面に急旋週で砲弾を閃光させながら白波を立て抜けようとしていたのが目の前で起きた。
「北の台」飛行場と烏帽子山のカノン砲が軍艦めがけての砲撃がなされ、水柱が見える。一方、艦砲弾は頭上を越え烏帽子山中腹で炸裂をした。その間は約五分、軍艦はソ連の駆逐艦でオホーツク海を抜け出たら砲撃は止んだ。軍艦の一隻であったので、「武装解除か降伏交渉に来たのが撃ち合いなったのかなー」と分隊長が言ったが、この日、隣のシュムシュ島ではソ連軍戦車隊が上陸していたのである。双方に千名を超える戦死者を出す大激戦となった事を武装解除後に知ることになった。
八月二十四日、「北の台」飛行場でソ連軍による武装解除、四ヵ月後の十二月末、行き先も告げられずソ連貨物船に乗せられナホトカ港からウラジオストックの第一〇ラーゲリで収容され、そして四年間のシベリア抑留生活を余儀なくされるとは夢にも思わなかった。
復員後、今次戦争の実相と、日本の戦争指導者の愚かさ及び現代戦争の破壊力と凶暴さを知り、二度と戦争を起こさず、平和を守らなければと悟った。
また、軍隊と捕虜生活の経験は、 少しぐらいの困難や苦労に耐え抜く事が出来るという知恵と勇気を与えられたと思っている。 (完) (東京都在住)