八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
会員リポート 一八九六(明治二十九年)三陸地震津波災害と復興(下) ―青森県・三沢市の例―
伊野忠昭
地震津波被災害からの復旧 小屋かけの費用
郡役所からは津波被害者に家屋建築ならびに漁船製造に関して木材買入困難な者に木材斡旋する趣旨で、 県の内務部長から至急調査の依頼が三沢村役場にあった。
役場では七月十二日付で家屋建築ならびに修繕用材、漁船製造・修繕用材、これに屋根葺用柾と燃料用薪の数を報告している
なお、家屋については積算の基となった材木の種類の設計書、簡単な図面が添えられているが、大きさは三間×四間である。国庫及び義捐金を得て支払が済み官木の伐採が始まる。
屋根用柾について
屋根用柾は青森小林区署の内真部官行事業でしか生産していなかった。 十二月末役場では各区長に役場へ柾代金を納入するよう通達し、搬出等協議するよう指示した。四つの区長が柾の契約をして、現品を受け取ることになり、一番列車で青森へ行くことになった。
地震災害からの復興
二十九年八月五日付上北部長から三沢村長宛の内訓六号による文書では、三沢村海浜各集落,各共有鰮網組合への交付金額は合せて七千百二十五円である。前述の漁船漁具の損害額は網主のもので、曳子(小前) の漁民が含まれていないことを考えると網主の財産補償ではなく、義捐金と救援金を共有組合に交付して、 漁民の生業を確保し、漁業を救済しようとする県の強い姿勢を知ることが出来る。
共同組合設立
網主と曳子と一緒になった組合は設立しえないとの網主の主張にかかわらず、県は共同利用組合の参加者に義捐金を交付するとの立場をつらぬいた。そのため網主と曳子の共同利用組合が各集落に次々と誕生した。 (例共同漁粕製造所組合、共同鰮組合等)
まとめ
漁船の新造、家屋や釜場の再建、 学校の復興には県南地方の官林の良質で豊かな木材の供給が大きな役割を果した。国有林の再建用の木材に加え小屋掛屋根用の葺材・薪炭材にいたるまで特価による払い下によって、被害民は義捐金・教援金で生活を再建出来たのである。国家が災害に対してすぐ動員できる森林資源を蓄積していたことは被害の救済に役立った。ここでは当時の三沢村の行政文書を使って復興過程を明らかにしようと試みたものである。
明治二十九年の三陸大津波のわずか五年前に東北線が青森まで開通したのであるが、内務大臣の視察、皇室の東園侍従ともに東京からは軍艦を使って視察したのであるが、帰途は東北線を利用して帰京している。鉄道の利用は国家的災害に迅速に対応することになった。
また、電報の利用は、内務省による被災地への電報局の設置で、態夫の徒歩による連絡に較べて、抜災地との連絡が早く負担を軽減することになった。地震災害の復旧について、 漁業の復興である漁船の建造は下北半島から帆柱や櫂・櫓などの木材を、 家屋用の柾については青森小林区署から供給し、被災地の各集落の再建用木材は、小川原湖周辺の官林を指定して運搬の負担のないよう配慮している。
国家の備蓄した森林資源が充分活用された
漁船・網・釜場の再建が共同利用の組合にのみ救援金、義援金が使われ、個人の財産の補償はしなかったことは、社会構成上網主・曳子( 納屋・小前とも云う)の関係に大きな影響をもたらした。
曳子は網主の借家に住み生活全般に渉って従属した地位にあったものが、義捐金により、自分の家を持ち、 漁船や網、釜場は共同利用によって自立の機会を与えられたのである。
明治国家の官僚にとって、綱元 ・曳子の関係は封建的主従関係のように見え、文明開化を目指した国家の理念に反するように考えられたに違いない。
当初はもっと不可能と見られた綱元・曳子を一丸となった共同経営による再建が義捐金・救援金の配分を通じて可能となったのは、何が理由であろうか。県・郡役所は村役場の協力を得て、各集落ごとの戸別調査を詳しく行った。この結果漁業に大半依存する各漁家への義捐金・救援金を漁船・網・釜場と各協同組合に配分して、生計を立てさせることを選択させたのである。村外の網主、 村外資本を排除したことは三沢漁業の自立の基ともなったのである。 (上北歴史文化研究会会長、三沢在住)
執筆者から錯誤により前回(上) の記述箇所(四行目)の訂正の依頼がありました。
訂正
この災害の死者約二万二千人。流失破壊一万三百九十戸。(日本近代総合年表第四版) 各県別死者内訳は青森県三四三人、 岩手一八、一五八人、宮城三、四五二人、北海道六人。(理科年表二四)