八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
会員論壇 三・一一東日本大震災後の八戸港復旧状況視察について
小龍勇
五月二十四日一〇時過ぎ、ペンクラブ、八戸市建設部港湾河川課、市史編纂室の面々十二人が、第一工業港に係留している国土交通省所属測量船「ほくと」(総トン数二九トン) に乗り込んだ。鮮やかな濃いオレンジ色のライフジャケット(この日のために新調したと思われる新品)を装着させてもらった。間もなく浮き桟橋から出発し、船首を新井田川河口方向に向け、静かに滑り出した。
視察に至った経緯は、技術史家でもある本田敏雄副会長(市史編纂、 近・現代部会長)がある時、八戸港の復旧状況は報道や紙面で知ることができる。しかしこれだけの災害からの復旧を、直近から目視しないと史実として記録するため筆が進まない。何とかならないものかという心情を吐露したことにある。以前港湾建設に関係した事のある小生としては、この趣旨のつぶやきを聞き流すことはできなかった。
国土交通省東北地方整備局八戸港湾・空港事務所に対し、八戸市の担当部局を通して視察をお願いしたところ、日時の調整だけで快く引き受けて頂き、船上の人になれた。
第一工業港では、北日本造船が建造中の船舶の大きさに驚きながら、 八戸大橋の下を通過し、蕪島西側の白銀北防波堤に近づく。大正十年から昭和四年に整備された八戸港最初の防波堤で、神田構想によるものである。被災の痕跡は見受けられなかった。エンジン音が心地良い、防波堤の内側であり、凪である。「ほくと」のキャビンは全員が楽に座れるシートが設置されており快適な視察である。港内の案内及び災害復旧の解説は国交省の小杉企画調整課長、氏は市と国との人事交流で、八戸市建設部港湾河川課長として赴任した経歴がある。八戸通であり、和やかなやり取りを含めた解説であった。資料は、被災前後の八戸港空撮資料、航路の洗掘埋没箇所,港湾施設の被災状況、最大の被害を被った八太郎北防波堤の応急復旧・本格復旧の施工フロー、転倒したケーソン撤去工事の使用機材とその工法、むつ小川原港ケーソン制作ヤードとケーソン回航状況などが網羅され、 二十二ページに亘る。工期は、平成二十三年六月~九月の応急復旧を含め、二十五年度末までの約二年半で完全復旧する。被災港湾初めて試みとして、津波堆積土砂をケーソン中詰材として有効活用することにより、 地域の復興に貢献するとともに工事費のコスト削減を図っているという。
八太郎北防波堤は、八戸地区新産業都市指定の昭和三十九年に着工し、 三十三年間の工期で平成九年に完成した。総延長三、四九四mの東北有数の規模を誇る防波堤だった。ケーソン全壊・半壊は、総延長の四割、 ケーソン以外の基部被災を含めると九割を超える被災である。巨大化された建設機材やそれを搭載する台船を目の当たりにした。復旧は新設より手間を要する。予算的には災害復旧事業費二九七億円の集中配分があるにせよ三十三ヶ年を要した工事を二年半で消化する機械の施工能力の高さに驚かされた。約一時間の八戸港の視察航海であった。
地震は、(平成二十三年三月十一日十四時四十六分)発生約一時間半後の十六時二十分に気象庁により、 「平成二十三年(二〇一一年)東北地方太平洋沖地震」と命名された。 十三日十二時五十五分に、気象庁地震火山部地震予知情報課は、外国の地震観測データを用い、本震による震源域の破壊の進行の様子(破壊過程)を調べたところ、通常より複雑なかたちで三つの巨大な破壊が連続して発生していることが分かったとし、再解析した結果、地震の規模を、 マグニチュード八、八から九、〇に訂正した。このような複雑なかたちで破壊した地震は極めて希で、一つ目の巨大な破壊に相当する波形とは異なる通常見られない特殊な地震波形が認められ、再調査したところ、これが二つ目、三つ目の巨大な破壊に相当することが判明したと発表。
四月一日になり、政府は震災の名称を持ち回り閣議で、「東日本大震災」と決定した。
記
青森県太平洋沿岸の津波の情報は、 次のとおりである。
三月十一日14:49 津波警報(1m)発表
三月十一日15:14 大津波警報(3m)へ切り替え
三月十一日15:22 第1波 マイナス0.8m
三月十一日15:30 大津波警報(8m) へ切り替え
三月十一日16:08 大津波警報(10m)へ切り替え
三月十一日16:57 最大波4.2m以上 5/27気象庁発表
(痕跡等から推定した津波の高さ 6.2m 4/5気象庁発表)
四月七日 23:23 津波注意報(0.5m)発表
四月七日 00:55 津波注意報解除