八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
八月期講演要旨 平成二十三年八月三十日 演題「八戸浦“くじら事件”と漁民」
講師 岩織政美氏(担当 小瀧)
明治四十年(一九○七)三月、大日本捕鯨㈱会社(後の東洋捕鯨㈱会社)が、三戸郡鮫村の蕪島に捕鯨事業場設置を計画し、計画推進者となった長谷川藤次郎の呼びかけで会合した鮫・白銀・湊・小中野の四漁業組合理事が、各組合漁民の意向を無視して同意した。四十二年四月、 理事の同意を得た日本捕鯨㈱会社は青森県に対し鮫蕪島事業場設置願書を提出した。これに対し湊・小中野両村の漁業者七二二名は、古来より鯨解体による鯨油・鯨血等の海中の流出により鰮の群来と生育を妨げ、一帯の鮑・北寄貝・海藻類等が壊滅するのは学説或いは実験上事実であるという内容の陳情書を青森県知事に提出した。これを受けた知事は、 蕪島での鯨解体所設置許可願を不許可とした。長谷川藤次郎は、この不許可を受け、鮫港外の恵比寿浜に借地し設置することに方針を変え、事業所設置許可がないまま鯨解体を実施した。解体した鯨肉を艀で湊川 (新井田川)沿いの缶詰工場に搬送する際、海中に流れ出た鲸血が原因とされる蝶・ホッキ・カニの死体が河口で多数発見された。青森県はこのまま放置出来ず、農商務省に実情視察を要請し、調査に当たった岸上博士は、無害か有害か一切原因と思われる事を口外せずに八戸を去っている。
漁獲・解体・加工という水産業の新たな連携から、安易な結論を出すことが憚られる状況だったといわれる。その後も関係者は設置の努力を重ね、その結果農商務省は、明治四十三年九月十九日付で鮫事業場の設置許可を与え設立された。漁民は当然の如く設置自体を肯定していなかった。設置のための強引な工作 (黄白=金銭)や、警察署が看過している操業期間外での解体処理等、許せざるものがあり、四十四年十一月一日朝決起した。公称一千人余の八戸浦漁民が、一挙に鯨会社を打壊し焼払い、禍根を断つに若かずと長谷川藤次郎宅をも襲った事件である。 有罪判決者三十六名に及び、四十五年三月懲役八年を最高にそれぞれ判決が言い渡された。同年七月の明治天皇崩御により特赦で九月に釈放出獄している。この百年前の八戸漁民の決起は後代にも語り継がれていくべき生活を守るための必死の戦いであったとし、この事実を検証しながら講演が進められた。
講師の岩織氏は、昭和二十六年四月、日東化学工業八戸工場(株)会社に入社し、夜学である私立日東高校に入学、四年後に卒業している。その頃から労組、青年、平和運動に携わっていたという。日東高校入学は大変な受験倍率であった。氏の受験時は七倍位だったとさらりと言った事が印象深い。その後昭和五十年四月から連続六期二十四年間市議会議員として活躍された。氏の生まれは八戸市湊町赤坂、八戸市内でも漁業に従事する住人の多いところである。
漁民の過酷な生きざまを目の当たりにしてきた氏が、「鯨騒擾事件」に辿り着くまで、時間はかからなかった。
また全国民衆騒擾事件の希有な 「記録」に遭遇した。この事件の裁判記録が同じ湊町の「男山」駒井庄三郎家で門外不出の宝として保存されていること知り、拝見した時の感動と感嘆は呻き声を漏らすだけだったと云っている。頁を捲ると紙が落ちそうになるくらい傷みが進んできており、保存復元に奔走することになる。八戸市にその予算化を要請し、 八戸市史編纂室において四年を掛け平成十三年に解読製本した。
公職引退後、懸案の「裁判記録」 の読み込みに着手した。その過程で、 近藤勲著「日本沿岸捕鯨の興亡」に出合い著者にも会い、鯨事業場の実態の確証を得ると共に、捕鯨事業について研究を重ねた。
講演では主に二人の人物について取り上げた。一人は前任者神田重雄の辞任を受け就任した湊前浜漁業組合理事吉田契造である。吉田らは、 東洋捕鯨会社から援助を受け、国内の事業場視察をしている。視察の結果は有害とした。吉田は、襲撃事件首謀者だったが、襲撃には参加しなかった。起訴されるが、「無罪」になっている。「日本漁民史」に「吉田契造密告説」が記述された。しかし誤りであり、「いわれなき冤罪」を晴らし名誉挽回を図らなければならないと氏は考えている。氏は吉田と同じ生誕の地である湊漁民ら多くの知人と交わってきた。漁民の気質を肌で感じてきた一人として、吉田密告説は即座に「これはウソだ」と強く 「受け止めたと熱く語った。裁判記録の中からも読み取れるとしている。 今一人は、明治法曹界権威者弁護士で被告駒井庄三郎らの弁護代理人となった花井卓蔵である。前述の駒井家の宝である「鯨騒動事件裁判記録」 の贈り主である。捕鯨会社の横暴がなかったならば本件は起らなかった。 「人民の騒擾は美徳である」とする弁護の内容について紹介した。最後に、八戸浦漁民による東洋捕鯨(株)会社鮫事業場焼打ち乱闘事件は日本漁業史の中で、最も激烈なものでありながら、歴史学研究会による「日本史年表」(岩波書店発行)に掲載されていない。本誌の編集方針は、民衆運動史など新たに発展した研究分野を取り込みたいとしており、八戸ペンクラブにおいても、掲載の協力を願いたいと講演を締め括った。