八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
講演会報告 十二月期講演会要旨
十二月九日、八戸会館ホールで南郷歴史民俗資料館副参事、古里淳氏による「青い目の人形」と題した講演会を開催した。ご存知、島守小学校の裁縫室の天井裏から、布で包まれたまま発見された「メリーちゃん」 のことである。アメリカ生まれの 「青い目の人形」は如何にして生まれたかと柔らかな第一声を発し、五十五枚に亘るパワーポイントによるスライドショウが始まった。
舞台は米国である。大正九年には既に一一一、〇一〇人の日本人が移民していた。大正十三年(一九二四年)頃、米国は不況で仕事がなく喘いでいた。低賃金で真面目に働く日本人移民に反感が強まっていたという。米国は移民に農地を貸すこと或いは新たに移民する事を禁止した。 そのことから日米関係が悪化し始めた。大正十五年頃になり、これを憂いた親日家がいた。過去に大阪・松山・京都で二十五年間教鞭を執ったことのあるギューリック博士である。 専門は、英語・科学・宗教学であった。対日本との関係を心配し、米国の将来を担う子供たちから日本の子供に親善人形を贈ること発案した。 それが米国全土に伝わり、小学校・ 教会・婦人クラブ等による協力者が二百六十万人に達した。人形が買い集められ、衣装や小物が新調された。 それを知った日本では「日本国際児童親善会」を創設し、全国の幼稚園・ 小学校で受け入れることにした。昭和二年二月、第一便二百七十七体が、 秩父宮殿下の乗り合わせたサイデリア号で、サンフランシスコ港(桑港) から、「雛祭り」に間に合うよう横浜港(Y港)に上陸した。第二便は東海岸のニューヨーク州(紐育州)から鉄路、西海岸カリフォルニア州 (加州)へ移動し、桑港から海路Y港に、一万九百五十九人の青い目の親善大使が入国した。このお嬢さんたちは、Special Passport (特別旅行免状)とVISA (査証)を所持し、無論すべて固有の姓名を名乗り、更に本国の鉄道の乗車券とto Tokyo Japanの外国航路の汽船の乗船切符を携えていた。しかし片道切符だった。
日本各地に贈られた人形親善大使の歓迎会は、盛大だった。昭和二年三月四日東奥日報、同年五月六日奥南新報でも歓迎会の様子が報道されている。八戸地区へ贈られた数は十八体。行先は幼稚園一ヵ所、八戸近郊の小学十七校だった。長者小学校には「パテアン」ちゃん、鮫小学校のお譲ちゃんは、「ジオイ」ちゃんと名乗っていた。
答礼人形をアメリカへの運動が起こり、贈られた学校の女子児童から一銭ずつの募金等をしてもらい、各県一体の四十七体と、日本代表等で五十八体の京人形が、クリスマスに間に合うよう制作された。黒い目の人形が、各県での盛大な送別会の後、十一月十日、日の出る国から星の国アメリカへとY港から天津丸に乗って出帆した。振り袖姿の人形には全て名前が付いていた。ミス日本は、 倭 日出子(やまと ひでこ)、ミス東京は東 京子(あずま きょうこ)、 ミス秋田は秋田 蕗子(あきた ふきこ)、ミス青森は、青森 睦子(あおもり むつこ)ちゃん達だった。 睦子ちゃんには、長持ち・箪笥、羽二重の丸帯、絹布ショール、アケビ蔓の手提げ施など、県内各所の特徴的なものがたくさん寄せられた。八戸からは、錦袋に納められた懐刀と守護札が贈られている。持参金は、 五銭五厘だった。米国に着いた答札人形は、半年の間に、四百七十九の都市で披露され、千回もの歓迎パーティーが開催されたという。
然し、日中戦争の長期化と日本の南方進出がアメリカ・イギリス・オランダ・中国等の連合国軍と摩擦となり、種々外交交渉が続けられたが、 昭和十六年年(一九四一年)十二月八日、日本軍のマレー半島上陸、米国太平洋艦隊の基地であるハワイ島真珠湾の攻撃に進展した。太平洋戦争の開戦である。昭和十七年のガダルカナル日米激戦を引き合いに出し、 十八年二月には、米軍を白鬼だと罵り、「青い目の人形」は仮面の親善人形であり、焼却して米英臭を一掃し、 学童に敵愾心を植え付ける等の世相になった。文部省国民局総務課長は、 青い目の人形について、壊すなり、 焼くなり、海に捨てるなりすることに賛成だと中央紙で言っている。一万二千体のうち、九十七バーセントが処分された。この様な風潮の中、 島守国民学校の誰かが、同僚の目を憚りながら、布に包んで、裁縫室の天井裏に隠した。その後の戦況は、 広島・長崎原爆投下とそれに続き、 終戦で幻と終わったが、米軍は、日本を無条件で降伏させるためには、 本土上陸作戦が必要と考えていたようである。本州最北部の青森県が作戦変更で候補地になった記録が最近見つかっている。島守地区は盆地で、 静かな田園が広がっているが、その盆地の外輪に、昭和十九年十月から昭和二十年二月にかけて、米軍の日本本土上陸作戦を想定し、コンクリート造りの陣地が無数に構築された。その工事の資材であるセメントや骨材の運搬は、八戸高等女学校や旧制中学校の生徒が動員された。その山間で殆ど原形のまま発見された陣地を紹介した。
優しい語りの講師はここで力が入った。「人形は悪いことをしていない、天井に隠した人は、優しい、 勇気のある人だったと思う、戦時中 命令を聞かなければ逮捕される時代と聞いております。戦争は二度と起きませんように」と講演を結んだ。 聴講した会員は、答礼の京人形の命名の下りでは、初めてかすかな笑みが見られたが、太平洋戦争の時代、 青春だった会員、幼児で戦争を知らない戦前派、戦後派、それぞれが、 何か思いがあったものと思われるが、 殆ど唇を真一文字に結んでいた。講演が終わった瞬間少しの間静寂が続いた。