八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

特別稿 小渡副会長の逝去を悼む

 小渡さん悔しいです。寂しいです。 こんなに早く逝ってしまわれるなんて・・・。

 体調を崩され、八戸のマンションからご家族がおられる東京のご自宅へ戻られた小渡さん。私はそれを追うように毎月、手紙を書き、電話しました。しかし、徐々に携帯電話にも出られなくなり、代わって奥さまが応対してくださいました。

 想い起こせば私たちの出会いは40年ほど前の東京でした。デーリー東北新聞社の駆け出し記者だった私が東京支社へ転勤となり青森県人会や在京八高同窓会の集いも取材しました。その会場には五戸町出身の鳥谷部哲三朗さんや画家の久保田政子さんもおられ、会議やパーティが終わると「どこかへ行こうか」と東京初体験の私に声をかけてくださり、上野や新橋など暖簾街を案内してくれました。私はその後、2回目の東京勤務で、お付き合いがさらに深まりました。

 共著でしたが「マーケティング・ リサーチ用語辞典」を出版するなど市場調査の権威者であった小渡さんが八戸大学で教鞭を執られるーと聴き大いに喜びました。私は直感的に新聞世論調査への協力を期待したのです。やがて大学の総合研究所を中心街に設立、所長の責務を不眠不休でこなし八戸大学これにあり・・・を、 身をもって示されました。大学での業績は「学長補佐」という肩書が物語っていると言えましょう。

 いまひとつ、忘れられない小渡さんの裏話は八戸で平成16年6月に開催された「日本マスコミ学会」のことです。八戸大学が中核となり全国の大学教授、メディア研究者、TV、 新聞、雑誌記者など250人がメディアの在り方などを論じ合う県内では初めての学会でした。平成15年、 私が東奥日報社へ移籍し、編集委員のころです。

 そのマスコミ学会メインテーマの一つが東北振興を見据えながら青森県が歩んできたむつ小川原開発や原子力船「むつ」問題であり、原発を報じるメディアの姿勢でした。実はこのシンポジウムのシナリオを練り、 パネリストたちを選んだのが小渡さんであり、マスコミ学会会員後輩の私もお手伝いしました。

 小渡さんはまた、八戸にペンクラブを立ち上げようーと動き出したころ、初代会長を務め、やはり八戸大学の教授であった島守光雄さんの補佐役に徹し、今日まで副会長でした。 私は熱い思いを胸に秘めつつも静かに行動する小渡さんの人柄を偲ばせるお姿・・・と拝察しておりました。

 そのペンクラブが5年前、初めて企画した首都圏での「文学への旅」 に小渡さんは奥さまを伴っての参加でした。上野駅で啄木の「ふるさとの訛り」を懐かしむ歌碑を見、 深川・木場や銀座で三浦哲郎文学、啄木の足跡、両者文学の共通性を辿ったのです。「吉田、もっとゆっくり歩け!」。参加者を気遣う、その時の小渡さんの太い声が耳に残ります。

 八戸ペンクラブもことしが15年、 揺籃期から成人期へと向かう大切な時期です。それを直前にしての小渡さんのご逝去は我々にとって大きな痛手です。個人的とも言える心残りは新宿・ゴールデン街で飲もうーという約束でした。

 小渡さん、ゴールデン街にある行きつけの店を私に紹介する約束でしたネ。それを果たしてくれず逝かれるなんて・・・。新宿でなくも、ここ、八戸にある馴染みの居酒屋でよかった。全快祝いの酒を仲間みんなで酌み交わしたかったのに・・・。

 八戸もいよいよ桜の季節です。「地域文化のために何かしたい」―。郷土愛が人一倍強くふるさとを思い続けた小渡さん、ペン仲間がその強いご遺志を引き継げるか―不安もありますがその方向は曲げません。

 長い間、本当にお世話になりました。心から感謝申し上げます。八戸もいよいよ桜の季節、どうぞ故郷の桜の香りを楽しみながら安らかにお休みください。

平成29年4月16日 八戸ペンクラブ 会長 吉田 德壽

*当クラブの創設から会員で副会長だった小渡康朗さん (76)が3月、東京で亡くなられた。4月16日、八戸で執り行われた葬儀で不肖、吉田が追悼のことばを述べた。一部手直し、哀悼の意を込めここに紹介した。