八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

特別寄稿 歌人、木村靄村のこと

道合千勢子

 ことしは郷土が誇る歌人、木村靄村(八戸市の木村書店創業者)さんの没後五十年。そこで、門下生であった道合千勢子さん(ウミネコ短歌会主宰)に師の功績や想い出などを綴っていただいた。

 斎藤茂吉全集第32巻(日記)に木村のことが記されている。

 昭和22年7月4日(月曜 ハレ) 「十時頃、八戸ノ書籍商木村靄村が来タノデ雑談ニフケリ午後三時近ク歸ッタ。」とある。この靄村こそ郷土八戸が生んだアララギ派の歌人であり、昭和2年三戸郡小中野村字新丁に木村書店を創業、初代の社長木村忠蔵のペンネームである。

 予告なしに靄村が訪ねたころ、茂吉は山形県の大石田に隠栖しており、 十時ごろといえば茂吉が起床して間もない時間。五十歳の門下生木村靄村には罰として師の書斎である「聴禽書室」を掃除させたという。

 その代償だろうか、この年の秋には大石田から小包が靄村宛てに送られた。一つは現在の書店に掲げてある看板、原書の半折、「木村書店・ 茂吉山人」である。

 もう一枚は「山脈の波動をなせるうつくしさただに白しと歌ひけるかも」の半折であった。

 靄村は大正9年から朝日歌壇島木赤彦の選歌で評価されたのが縁で、翌10年にアララギに入会している。大正15年、赤彦が胃癌で亡くなり、その後は茂吉の選歌と指導を受けている。

 赤彦選歌の作品は昭和24年1月、 村次郎方「あのなっす・そさいてい」 叢書とNo.5として「山村」に100首収められ100部発行、後にさらに100部追加したと直接に村次郎から、私が伺っている。

 茂吉選歌の作品は、昭和30年6月、 東京の近藤書店から、青森アララギ叢書第二篇として、靄村第二歌集 「日蝕」が出版された。「日蝕」には、 昭和2年~19年までアララギ誌に掲載された448首が収められている。

 靄村といえば書画、蝋けつ染などの独自の作品におもむきがあったことである。

 個展の一回目は昭和34年10月11 日・12日、青森県立図書館で開催された。展示作品は150点、書や画、 蝋けつ染などであった。この個展は短歌作品と書画が一体化していると好評だった。二回目の個展は昭和39年、青森市の「カネ長ホール」で開催され、同年、八戸市のコロンバンでも色紙展を開いた。

 三回目の個展は昭和40年7月、八戸市立図書館で開催し、蝋けつ染の屏風なども展示して好評であった。 いずれの蝋けつ染の染色は私が担当した。

 靄村は三戸郡階上村出身で、昭和30年母校の階上小学校創立80周年記念に校歌を作詞。地元の階上岳周辺を詠んだ歌も多い。

 昭和33年には、八戸市文化協会の初代会長に推された。同37年、第4 回青森県文化賞を受賞。同39年青森県褒賞を受けている。このころが靄村にとっての絶頂期であった。

 書店主としてはどうであったろうか、帳場に座り作歌に専念し家族にとってはあまり歓迎されていないように思われた。

 「牛になったつもりで家族のくれるもの黙って食しぬこの頃の吾」という歌がある。

 八戸での個展を終りに、靄村は気のゆるみのせいか血圧が高くなり、 別居していた別宅、東京の奥様の元へ静養に帰られた。その後しばらくして昭和41年2月25日、奇しくも斎藤茂吉と同じ命日に脳内出血のため67歳で永眠。戒名は「詠心舎華香靄村居士」である。当時の地元新聞は県歌壇の大きな損失と報じている。

 その6年後、昭和47年10月、階上岳の八合目、大開平に功績をたたえ 「暁星短歌会」と「八戸アララギ会」 のメンバー共同により、歌碑が建立された。その当時の代表者は三元呉服店社長・藤井貞蔵であった。

 歌碑に次の歌が刻まれている。

「乳呑ます牛のまなこにふるさとの山はさかさまに 映りてゐにけり」

(ウミネコ短歌会主宰 八戸市在住)