八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
特別寄稿 十二月八日の上海-電測兵日誌(上)
中村英二
戦争に行き、敗れて帰ってきた者が、戦争体験記など書くのは、真に嫌なことだと思っていたが、行ったこともない者がさも行ったような話を自慢げにされるのを、聞いたりみたりするのには無性に腹がたつ。年々戦争体験者も少なくなるようであるが、そのような意味から、私の拙い体験記を記録して残すのも、多少は意義あることと思い立って、筆をとることに決めた次第である。
日米戦争の勃発時の昭和十六年(一九四一)十二月八日を私は上海で迎えた。日本との時差は当時数時間あったと記憶している。その日の四時二十分(現地時間)に砲声のような音を耳にしたのである。隣に寝ていた妻が、起き上って「何の音でしょう」と言う。私は合点がいかないまま、まさか戦争とは考えも及ばず、「陸戦隊の仏暁演習だろう」とうけながしていた。ところが、その後も断続的にひびく音に「何かある」とは思ったがそのまま寝込んでしまった。六時半頃に起きた時は音はやんでいたので朝食をいつもの様に終え、会社に向けて家を出た。途中、街区のあちこちにビラが張り出されていたので近付いて読んでみると次のようにあった。「大本営発表 わが陸海軍は西太平洋上において米英軍と戦争状態に入れり」と。その瞬間に、今朝ほどの音は旗艦出雲からの攻撃音であったか、とようやく気付いたのである。
というのも、上海在留邦人の誰一人として戦争に突入するとの予感をそれまで持つ者は居なかったからである。何故、そのように私か断言できるかというと、その二日前の金曜日に、友好的な上海青年団常任幹事会という会合が開かれたばかりだったからである。
上海青年団というのは、上海総領事館が音頭をとって昭和十六年三月に創立した青年団である。これは内地とは異なる職域青年団である。その中心は三井物産青年団と三菱商事青年団であり、私も後者に属していた。しかも人数は八百数十名を擁し、当時私は会社青年団を代表して常任幹事という職にあった。常任幹事会の中には弓集団司令部の参謀将校なども含まれていた。また憲兵隊からは隊長の佐藤中佐までも来ていた。そのほか東亜同文書院大学から数名と南満州鉄道株式会社調査部からの派遣社員も居た。どういうわけかいつもくる新聞社の者が当日は一人も居なかった。
この会は、毎週金曜日が例会日となっていたが、十二月六日の会合は特に印象的なものであった。それは当日の主題は、蒋介石の居る重慶との話し合いがどの程度まで進んでいるかということで、早く進めないと日本が米英と一戦を交えるという懸念が強まるというような話であった。要は重慶との交渉は日本政府だけでできる筈はない。この上海の民族と民族が接触しているところでの解決策を作るのがいいのではないか。内地であれこれ政府や軍の中央が言ってもどうにもならないというような話であった。究極は重慶を取り込むことによって毛沢東の紅軍との仲を裂くことで四年にわたる支那事変の解決がはかれるのではないか、というのが結論であった。
しかも重慶との連絡や交渉に当たれる人びとはこの上海に沢山いるので、総領事館を通じて内地の関係先へ打診しようというところまで行ったのである。
話がここまで行ったところに本八日の日米開戦である。「すべてが万事休す」となってしまった。