八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

戦後六十一年特別寄稿 自分の遺骨箱と対面

松橋 睦夫

所沢陸軍航空整備学校八戸分校

  私は旧制八戸中学校三年の時、満十六才で陸軍特別幹部候補生となるべく志願受験し、待ちに待った採用通知を頂いた。そして昭和十九年六月五日所沢陸軍航空整備学校八戸教育隊へ入校した。入隊式を控えて四月に入隊した特幹一期生に軍服の着用敬礼動作等を教わり、新品の背嚢、雑嚢、水筒、巻脚絆、編上靴、営内靴、軍帽に身を固め、未だ油も乾かぬ九九式短小銃を担い帯剣を締めて、入隊式に臨んだ。「特別幹部候補生、陸軍一等兵を命ず」、の命令を受け、帝国軍人としての第一歩を踏出した。二、三日のお客さん扱いが終るや否やラッパに始まりラッパに暮れる苛烈な訓練が始まった。

 同じ中学校の同期生、江渡正治、管照夫は六班、私は七班、森田義男は十班である。

 我々同期は十六才~二十二才位までで九百人の入校で、三百人単位で八・九・十中隊の三つに分けられた。我等十中隊は十六・十七才の若年の中隊である。軍学校は陸・海軍を問わず毎日がビンタの嵐で息つくひもなく、演習訓練は中学校の教練なんてものの数では無く、絞りに絞られた。終わると内務班に帰り昼食、直ちに寝床造り、作業服に着替え銃の手入れ衣服の整頓と、もう息つく間も無い。昼食後の一時からは学科と実習である。実習の手始めは鏨を使って鉄片を切りスパナ作りである。ほとんどの者が初体験、ハンマーで手を打ち何度か痛い思いもした。次は補助翼に使われている羽布の補修作業。終わりは機関工学の講義と実習。何名かに発動機が一基与えられ分解組立から始まった。工具を使い教官の指示に従い、分解して行くのだが、その都度部品の名称を覚え込まされた。工具と共に名称は全て日本名。うっかりスパナ、ドライバー等と云おうものなら早速ビンタが飛んだ。終わると組立である。多くの部品を種類別に整理し、順序良く組みたてて行くのだが、どうしてもその内の一つが足りなかったり、余ったりして何度もやり直し、苦労したが、工具の使い方、発動機の構造等を覚え、一歩一歩整備士としての技倆を身に付けていった。

 講義は計器、羅針盤、気象、可変、ピッチプロペラ等教わる事が多岐にわたっていた。午前中の訓練で消耗し、暑い中での講義のためあちこちで船を漕いでいる。眠くなったら起てと云われるが、それが中々出来ず姿勢は正しく正面を向き、眼は半眼、結構眠る術を覚えた。そんな日々を送りいよいよ機体実習に入った。実習機「キ・五一」九九式襲撃機、軍偵察機が班毎に割り当てられ、助教のもと始動から始まり試運転時の計器による発動機の運転状況の確認、プロペラピッチの作動確認、方向舵、昇降舵、フラップ、補助翼等の作動確認、特に計器での確認は操縦席でのレバー操作で上げたり下げたりしながら回転計、ブースト計、燃料計、油圧計等の指針で発動機の作動が適正であるかを確認し、異状があれば対応すると云う、戦闘機機関工手としての実戦においても即対応出来得る教育を受けた。

 皆の夢は早く実力を付け、自ら整備した機を地上滑走で離陸線まで持って行き、搭乗員に引き渡す事であった。週番下士官見習、区隊勤務候補生、内務班取締候補生等が割り当てられ、私事に係わる時間等は殆ど無かった。

 八戸での思い出は引率外出であった。長者山に行き社の横の馬場の土手で区隊全員の記念撮影で娑婆の空気に触れた事によって元気に訓練に励む事が出来た。種市海岸での遊泳訓練も楽しかった。小学校体育館、公民館とお寺が幹部の宿舎であった。昼寝が許され、日常の寝不足が一気に解消された思いであった。演習に名を借りたストレス解消の温情措置だったかもしれない。楽しい事、嬉しい事、色々あったが略す。

名古屋三菱航空機製作所大江工場

 昭和十九年十一月、突如名古屋三菱航空機製作所大江工場に生産援助の為、派遣される事になり、陸奥市川駅より乗車、名古屋に出発した。帯剣、背嚢、水筒、雨外被を身に付け、約五ヶ月ぶりに車中の人となった。灯火管制下の車内は鎧戸を下げ、電灯は暗く、快適とは云えないが、久し振りの列車旅行に興奮し寝る間もない名古屋への旅であった。名古屋に到着、市電に乗り宿舎である港区の名港寮に着いた。旅館風で小部屋が多く、四・五名位に分散して起居することになった。匂いも懐かしい畳、これまでの三十名の板の間の大部屋での寝台生活に比べ、何と娑婆っ気の多い環境か、今迄の緊張感は緩みがちであった。しかしそれなりに規律の厳正は教育隊以上のものがあった。食事は工場内の食堂で取り入浴もそうであった。食事は教育隊の高梁飯と違い、薩摩芋混入の白い御飯、暫くは美味い美味いと食べていたがその内胸やけから腹が張るやらで往生したこともあった。

 作業員の構成は様々で直轄工、徴用工、(男女の勤労報国隊)勤労動員学徒(長野飯田商工の生徒、女学生は不明)岐阜航空整備学校少年飛行兵十六期乙)がいた。欠礼したとか態度が悪いとかイチャモンを付けられるなどトラブルもあった。十二月一日昼食後、中隊長より上等兵に昇進したと云われ、真新しい星三つの階級章を渡され、早速星二つの階級章と取り替えた。午前中は一等兵午後からは上等兵に変身。工場の連中は驚いたであろう。特に少年飛行兵が驚きイチャモンがなくなった。その頃から名古屋上空B二九が定期的に飛来する様になった。高度一万メートル以上飛行機雲を白く引き、鮮やかな飛ぶ姿にただ見惚れていた。後日始まる空襲の為の偵察飛行だったのである。

 毎週日曜日は週番を除いて外出が許された。最初の外出は引率外出で未だ空襲を受けなかった名古屋城の天守閣に上り、名古屋市を一望。興味をそそる書画、骨董、城内の黄金の井戸等を見学、東山公園では動物園に行き未だ薬殺されていなかった象を見る事が出来た。次回からは単独外出が許され、戦友と三々五々連れ立ち栄町、大須観音辺りを良く歩いた。目標は雑炊食堂だった。上手く二杯ありつける事もあったが、兎に角食い気旺盛な年頃であった。

 十二月七日午後の作業に掛かり相変わらずの鋲打ち作業中、突然機体がくらっと揺れ、続いて上下左右に揺れ始めた。世に云う「東南海地震」である。外を見ると電車がひっくり返っていた。辺りを見回すと丁度建物の中二階に設置してある便所が、音を立てて崩れ落ちるところであった。周囲に配管されてあるエアー管、水道管、ガス管などが破裂。噴出す音や女子の悲鳴やらがきこえたので、これは只事ではないとすぐ屋外に避難した。工場の敷地は埋立地で大きな地割れがあちこちに見られ、落ち込んだら大変と安全な場所に避難して、しばらく成行きを見守った。ようやく地震も治まり工場内を見ると、多くの陥没個所が見られ、機体を支える治具も共に傾き、作業続行が出来る状態ではなかった。応急の復旧作業が始まったが、待機と云う事になった。幸い候補生には犠牲者は無かったがそれ以外の人達の犠牲者は相当数あったと聞いた。工場は三交代制で操業し、幸いにも我々はそれに組み込まれていなかったが、地震の災害以後は夜間作業にも従事する事になり、その第一陣として参加した。その第一夜、午前零時過ぎ警戒警報が鳴り出した。ふと海軍機(零戦)工場に目をやると、もはや真っ赤な火の海である。空襲警報が鳴る間もなく避難の鐘が鳴り出した。全員屋外に出て深照灯の交錯する空を見上げながら、B二九の進行方向を見極めながら逃げ回った。その後波状的にやって来るB二九の空襲は猛烈を極めた。爆弾の落下音は丁度列車が鉄橋を渡る音に似ていて、又ヒュルヒュルと風を切る不気味な音は今もって忘れられない。地震、空襲と壊滅的な被害により最早生産は完全に不能となった。

 当時尾張一ノ宮の東洋紡績の工場では「キ-六一(三式戦飛燕)」の機体製作が行われていた。我々特幹と少年飛行兵がこれに従事することになり、一ノ宮に移ったが、短期間であった為かあまり記憶には無い。ただ飲料水がなく乾パンで過した事だけは覚えている。のどか乾いても飲み水がなく大根を失敬して大根でのどの乾きを癒した。

宇都宮陸軍航空廠師三四二〇六部隊

 昭和二十年二月四日、宇都宮陸軍航空廠に尾張一ノ宮より移動。本業である機関工手としての整備援助を命ぜられる。名古屋で過ごした身には冬用の軍衣袴、襦袢、桍下が支給されているとは云え、男体山筑波颪は身にこたえた。当時航空廠は清原郡(現在工業団地に成っている)にあり、宇都宮市の東部にあって、駅から結構な距離があったと記憶している。

 駅から徒歩で、整備兵としての本務に期待を寄せながら、航空廠に向った。だだっひろい部屋が班毎にあてがわれ、藁布団、毛布五枚、枕が支給され、暖房設備等一切無しの生活が始った。あまりにもお粗末な食事に栄養失調者が発生し、後日実戦部隊への転属に同行出来ぬ者もいた。

 毎日力作業は群馬県太田市にある中島航空機製作で、生産し空輸され来た「キ-八四(疾風)」の武装作業と発動機調整作業であった。この「キ-八四は速力武装ともに優れた日本陸軍の最強戦闘機と称された傑作機。発動機は中島「ハ-四五」空冷十八気筒星型千八百hp(馬力)四枚ペラ最大速度、高度六千メートルで、六百二十四㎞/h上昇限度一万一千メートル武装は二十㎜砲×二、口径百二十七㎜機関銃×二装備である。八戸の約半年間だけの教育、訓練で良く整備出来たものです。今思うと恐さ知らずに、若さで立ち向かったものと、思い出すつど全身震いがする程である。

 昭和二十年五月中旬生産援助、整備援助の課程を終え、七ヶ月振りで八戸に帰隊。六月一日兵長に昇進し、真新しい金筋一本の階級章をつけ、卒業式に臨んだ。全員三百名と思っていたが実際は二百四十名で三班、六班は尾張一ノ宮から宇都宮へ移動する際、我々と別れ、その後三班は航空士官学校高森分教場へ、また、士官候補生五十九期の六班は同じく航空士官学校坂戸飛行隊に派遣され、満州の杏樹、温春に移動した後その地で敗戦を迎え、シベリアに抑留された。シベリアでの過酷な労働、栄養失調のため死亡した戦友も数多いと聞いている。卒業後何時転属命令が出るか、何処に行かされるか、習得した技術が実戦部隊でどれだけ通用するのか不安はあったが、我々にとっては嬉しい事でもあった。或る日後輩の私物を送る仕事があり、志願したら選ばれたのでトラックで塩町郵便局本局に行った。勤労動員に来ていた八中同期がめざとく見付けて仕事は俺達がやる。お前は直ぐ家に帰って家族と会って行け他の者は仕事が終り次第、お前の所に送ってやるからといわれて、追われる様に自宅に帰る。直ちに父、姉が食料品事務所から早退し、祖母が生蕎麦を作ってくれる。戦友も仕事が終って送られて来る。蕎麦の馳走に戦友達の食欲にも火がついたため、末弟が自分の食べる分を遠慮してしまった。食べ終って今度何時会えるやらと別れを惜しんで帰隊する。勿論徒歩一時間もかかる道である。

平壌航空廠と水原分廠との往復

 五月三十日「平壌航空廠に転属を命ず」があった。十九名戦友達と「靖国で会おう」を合言葉に出発した。炊事で働いている民間人の人達も営門から少しはなれた土手で見送ってくれる。私を呼ぶ声にふりかえり見る。大向さんであった。大風呂敷包みを渡される。列車の中で食べろとのお握りであった。

 東京で宮城遥拝して関釜連絡船出港地の下関に着き、出港日時を問い合わせるのだがさっぱり要領を得ず、下関に宿泊。その夜半から朝にかけて猛烈な空襲に遭い、一睡もせず逃げ回った記憶がある。翌日博多に行ったところ、日時は判らぬが、山口県の仙畸港より船が出るらしいという事が判る。山陰本線に乗り左に日本海を眺め乍ら、正明市駅に到着。小さな駅は大陸方面から沖縄に向かう兵士でごった返していた。仏言寺と云うお寺が宿泊所に指定され、赴くとすでに本堂は大陸に渡る兵士で超満員であった。ようやく離れの一室が起居室として当てがわれた。名古屋以来の畳の匂い、点呼は無し、朝寝昼寝は自由放題、日本海での遊泳、釣、農家に枇杷の実の仕入に手伝う者など、自由を満喫した。出発当日、艀に乗り沖に停泊していた本船に乗り込んだ。船内は既に軍人、一般人で満杆状態で船室は坐る余地も無い程の混み様。人息れでとても居られる状態で無い。幸い天気も良し甲板で過ごす。波荒き玄界灘。潜水艦の出没や空襲の恐れに不安は一杯であったが、何時現れたか海防艦二隻の護衛がついていた。飛び魚(アゴとも呼ぶ)の飛行が目を和ましてくれるうち、釜山港に大陸の一歩を踏む。桟橋での異様な匂い、行き交う人の服装に、到頭外地にやってきたとの思いであった。「ますらお館」と云う軍人専用旅館では蚤、南京虫に悩まされながらの一泊。翌朝早く平壌目指して広軌鉄道での出発。車窓より赤土の禿げ山、牛を使っての農作業、土饅頭(墓)等本土とは一味違った風景を眺めながら車中泊。翌日平壌に到着する。八戸を出てから十二日間あまりの旅であった。

 平壌は中学二年の東洋史で習った大同江下流に位置す。楽浪郡の都として漢風朝鮮文化の黄金時代を築き、以後高句麗の都、唐代には一時安京都護府所在地、後高句麗、李氏朝鮮の代は西京と称され、牡丹台、乙密台等の景勝地や古墳、遺跡等がある。何時か、機会があればもう一度訪れて見たいところである。

 申告を済ますと同時に本廠十名のほか、咸興三名、水原三名、郡山三名と分廠への配属命令が出された。翌日私は北海道出身の唐島田、片山両兵長と共に水原分廠に向う。出迎えの上等兵の案内で女学校に置かれていた本部に到着し、着任の申告を終えた。

分廠長内田卯吉少佐 整備関係幹部 坊 中尉 村上中尉伊藤少尉 経理科長細川中尉 軍医等のほかに 電話交換手、筆生と呼ばれる女子軍属等が出迎えてくれた。

 早速、飛行場勤務を命ぜられ、本部より約四㎞程離れた所の飛行場内の一隅にある兵舎に落着く。村上中尉を長とし四十名程の編成ではなかったろうか。下士官室を与えられる当番兵も付き、昨日とは天地の差である。落着く間もなく上等兵二名を連れ五式戦(キ-ー〇〇)の研修の為、本廠に出張を命ぜらる。片山唐島田には貧乏籤を引いたとボヤかれる。満州から本土へと飛来する機沖縄特攻作戦に参加すべく飛来する機の中継地として燃料補給発動機の点検整備が我々の主任務たった。二度命令で上等兵二名を連れ、飛龍(キ-六七)の研修の為、本廠への出張である。軍隊は変なものでこういう時は先任が選ばれる率が高いのである。立て続けの行ったり来たりで研修の報告書作製もままならず大忙しである。この「キ-六七は優秀な雷撃能力に海軍が着目少数機採用「靖国」と命名された爆撃機で、双発動機三菱「「ハ-一〇四」×二空冷十四気筒星型最大速度高度六千九十mで五百三十七㎞/h上昇限度九千四百七十m航続距離三千八百㎞武装二十㎜砲一機関銃×四爆弾八百㎏の装備であった。今でもあの発動機の金属音が耳に残って居るほどです。此の機に七十五㎜の野戦砲を積んだ「キ-ー〇九」重戦闘機も作られたが、低空夜間爆撃に戦術変更の為巨砲は遂に役に立たなかったという。

 「キ-ー〇〇Ⅱ」戦闘機は「キ-六一」飛燕の水冷発動機を空冷発動機千五百hp三菱「ハ-一一二Ⅱ」星型発動機への換装しただけであったが、非常にすぐれており、戦闘機としても爆撃機としても大いに活躍した。かつて「キ-六一」には、発動機と生産ラインに問題が生じ、又日本操縦者に信頼性が低かったが、「キ-ー〇〇」に依って信頼性を高め好評を博した。発動機三菱「ハ-一一二-Ⅱル」空冷十四気筒星型千五百hp最大速度高度六千mで五百八十㎞/h上昇限度一万一千m航続距離四千七十㎞武長二十㎜砲×二爆弾五百㎏という装備であった。入校以来、私は「キ-五一」九九式単偵を始めとして「キ-ハ四」疾風、「キ-六七」飛龍、「キ-ー〇〇」五式戦闘機といった日本での最新鋭機の整備に携わることが出来た事を今でも誇りに思っている。しかし、戦争末期には、船隊から回されて来る「キ-四三」一式戦闘機隼、「キ-四五」屠竜二式戦闘機等の特攻機整備に追われる毎日であった。又当地から特別攻撃隊に出撃する兵士の面倒を見ることがよくあった。特攻員は特別操縦見習士官、少年飛行兵、航空機乗員養成所出身者が主で、年令は特操を除き、二-三才年上の人達でした。日の丸の腕章、白いマフラー、はちまきをキリリと締め手を振り、凛々しく飛び立って行った光景は、決して忘れはしません。大体二、三泊するだけで飛び立ったら再び還ることのない若者達に対してかなり神経を使いましたが、皆私を坊やと親しみを込めて呼んでくれました。今でも胸がつぶされる様な痛みが残っています。

敗戦、入院、帰国

 絶望と混乱の水原邑で迎えた八月十五日の敗戦の日は、太陽だけがギラギラと照りつけていた。だが、此の日から我々の戦が始っだ。異国となった朝鮮では部隊本部への襲撃がつづき、飛んで来る銃弾、市街地の日本人家屋の焼打ち延々と燃え続ける様をただ見て居る丈の口惜しさ。敗戦国民の外地での無能さを、まざまざと見せ付けられるのでした。その中で飛行機機材の整備、満州方面から帰国する邦人の鉄路の確保等の何時襲われるかも知れなぬ張り詰めた毎日であった。そうして戻る中、九月初旬私は悪性マラリアに感染し、高熱が続き、一時は記憶を喪失するに至った。混乱の中、唯一人病院からの迎えの車で隊を離れ京城陸軍病院に入院する。そこは外観は立派でも薬もなく、食糧もなく、帰国を目前にして無念の涙で散って行く者が続出する。患者同志で戦友の死を賭けると云う自暴自棄の有様であった。半月程経て、米軍の赤十字マークのキャリアカーで仁川港へ行き、船で博多港へ上陸。小倉陸軍病院、熊本陸軍病院、同藤崎台分院を経て十一月二十五日敗戦のボロボロの身で復員となる。熊本からどの様にして八戸まで帰ることが出来たか未だに記憶を想い起こすことが出来ません。色々の辛酸をなめたにせよ、戦後少しで復員出来た事は幸いではなかったかと思います。

 八戸に帰り八中七回生の大叔父から診断治療してもらいました(二高より九州帝国大学一回卒)上海や広東、香港に日本人として始めて開業した医師で、マラリアやペスト、コレラ等の本場での経験者であったため、悪性マラリアを四年かけて完治することが出来ました。

 昭和二十一年から二十五年まで八戸市農業会(途中に変更になり八戸市農業協同組合)に勤務しました。その頃市役所が隣りにあり、農務課とつながっていたので良く通っていました。その裏に市長公舎があり、その隣の小舎の中に祭壇が造られ、遺骨箱が並べられていました。手を合わせ礼拝、どなたの遺骨かと見るともなく見ると、なんと私の名札の箱が有るではないですか。びっくりして係の人に住所氏名を報告し、その遺骨箱を受け取るや否や係員の前で足で踏みつけ壊してしまった。中に名札が一枚あるだけでした。市係員にとんでもないことをすると喰ってかかられたので、兵事係か復員係かとにかく責任者を呼べ、貴様等何たる仕事をしてるんだと怒鳴り付けました。俺が見付けたから良いがこんな物が親元に届いたら何とする、こんな生半可な仕事をしてどうすると!義務的に仕事を進める役人根性が許せないと云う気持ちがそうさせたのかも知りません。

 私は今も戦争中の後遺症により、いまでも人退院を繰り返して居ります。戦乱に散った戦友達に比べるならば、生あるだけでも有難いと云わなくてはならないと思っています。しかし、戦争程悲惨なものはありません。二度と繰り返さない為にも一日も早く全世界に平和が齎らされんことを祈るのみです。