八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
戦後70年特別企画 その〈4〉友好クラブ員寄稿 ふたりの甘粕
泉嶺
新京特別市洪熙街第6政府官舎254号。これがボクら家族の住所だった。昭和18(1943)年、当時、 勅任の青森県知事だった山田俊介氏が満州(現在の中国東北部)の新京 (現在の長春市) 首都警察庁総務局長に赴任した時、父も青森県庁職員から随行して首都警察に転職、運転免許試験官になった。
新京は発展途上の大地だったー。 洪熙街は今で言う住宅団地である。 新京郊外の南湖という湖沼のある台地から一望できる日本人街で、黄色のレンガ造りが満州国政府の要人、赤レンガの建て物群が満州国軍を指揮する日本人将官の住まいだった。ざっと二千棟ぐらいあったと思う。その住宅群を挟む形で満洲映画協会(通称満映)と満州赤十字病院 (通称満赤)が威容を誇っていた。
小学3年から5年生にかけての思い出の場所であり近所の仲良し五人組(榎本・池田・竹島・森・ボク)の冒険心を掻き立てる場所だった。特に満映は倉庫のような撮影棟が並んで迷路も多く、わくわくしながら忍び込んでは“基地”を作った。 満映の裏に築山のような場所があり、 そこから湖西会館という迎賓館が見渡せた。時々パーティーや映画の試写会が開かれ、着飾った人たちが黒塗りの車から降り、夜更けまで灯りが煌々としていた。
仕切っていたのは坊主頭の小柄な人物で、当時満州の国民服とされた黄土色の詰襟の協和会服に身を包んで、構内に出没するボクらにも寛大で怪我だけを注意してくれた。
日本国内は戦時体制で厳しい生活を強いられていたというが、物資が豊富だった満州は生活もゆったりしており、ボクらも遊びは戦争ごっこ だったが、“秘密基地”にはロシヤ菓子など潤沢に溜め込んでいた。 ―それが1945年8月の敗戦で一変した。
ソ連軍が不可侵条約を破ってソ満国境から侵攻、大量の戦車群で新京に迫った。頼りの関東軍は邦人を見捨てていち早く遁走。代わってソ連国境から離民化した開拓団の人々が続々と新京へ逃げ込んで来た。そして赤痢など疫病と飢餓で死んでいった。後の話ではその数全満で40万人とも言われる。
警察官だった父は首都防衛と治安のため新京にとどまり、家族も行動を共にした。それが一家のいのちを救うことになった。逃避行で南下した邦人の大半は疫病と熱中症で倒れて行ったのである。ボクら五人組も欠けることなく、満映の“基地”も健在だった。真夏でも涼しく、ソ連軍に小学校の校舎を撤収されたボクらにとって、“基地”は唯一の隠れ場所だった。
敗戦と共に満映の組織は解体されたが、中国人(満人)の従業員が多かったことから、同じ戦勝国の中国に遠慮して、ソ連軍は満映の屋舍撤収を憚ったらしい。―その中で坊主頭の人物の自殺を知った。洪熙街では要人の自殺が相次いでいた。後年知ったことだが、この人物は関東大震災のさなかに無政府主義者の大杉栄を殺害した元憲兵大尉甘粕正彦だった。当時は満映理事長だったのだ。
甘粕理事長は満映に踏みとどまり、 大陸科学院から青酸カリ一千包を取り寄せて日系職員と家族で龍城の覚悟をしたと言われる。しかし招集をかけた真意は集団自決することではなく、「白旗を掲げて降参する」宣言だった。過激な行動で犠牲を大きくすることを抑える手段だったと言われる。そして甘粕は敗戦から5日後の8月20日、ソ連軍が新京を完全に占領した早朝に理事長室で服毒自殺を遂げたのである。―詳しいいきさつを知る由もないボクらだったが、 坊主頭の優しいおじさんの死を知り、 湖西会館に運ばれる白木の墓標を遠くから眺めていた。
甘粕正彦は大杉栄を殺害した冷血な憲兵大尉としてのイメージが強く、 満州でも黒幕として暗躍した資料が多い。先年ボクは、満州皇帝溥儀と郷党の工藤忠をモデルに歴史小説 「皇帝の森」(北方新社)を刊行したが、その中に登場する甘粕も敵役として書かざるを得なかった。しかし少年の日に見た甘粕は優しく、満映社員とその家族のために踏みとどまった姿なのだ。ボクらの中にはこれからも“ふたりの甘粕”が棲み続けるだろう。
(弘前市在住、弘前ペンクラブ副会長)