八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
随筆 八戸(尻内)駅雑感
三上秀光
昨年一月二十日、八戸(旧尻内)駅前一番町通りに石川啄木記念碑が建てられ、建立団体責任者である商店会長・市議のKさんから誘われるまま除幕式に出席した。望郷の詩人、現代短歌に新境地を開いた歌人と云われ、惜しまれながら夭折した啄木を知らない人は無く、その短歌の一首や二首は皆囗にしていることと思うが、彼が八戸とどんな関りがあったかは、殆ど知られていなかったと思う。私もその一人であった。
彼の生地である隣の岩手県では、盛岡市内は勿論、玉山村(旧渋民村)にはあちこちに歌碑が建てられ、記念館や小学校、新婚時の住居等も保存されていて、重要な観光ルートに組み込まれ啄木愛好者の来訪が絶える事がない。
一番町に建てられたのは歌碑ではなく、明治三十七年九月二十八日、彼が北海道に行く途中、尻内(現八戸)駅前旅館に一泊し、そこから出した書簡の一部を刻した記念碑である。尻内に下車した理由は明かでないが、碑建立記念の報告では、歌集発行の金策の為小樽の義兄(長姉トラの夫)山本干三郎の元に行く途中だったという。義兄は明治三十一年前後、日本鉄道会社尻内駅の助役で啄木はその姉の元に何回か訪れていて、昔を懐かしく思っての寄り道ではなかったろうか。
明治二十四年東北線が全通開業した時の時刻表を見ると、尻内発の上りは六時四十分発仙台行きと十三時二分発の上野行き、下りが五時三十分発と十三時三十一分発の青森行きで、僅か上下各二本、所要時間は上野には二十四時間余、青森と盛岡には四時間以上かかった。啄木の書簡では、「今日午後草庵を出て鉄車一駆、今宵はここ尻内に北遊第一夜の夢を結ばむとす」とあり、翌日は「朝餉もそこそこにすまし四時四十分尻内を発しぬ」とあるから、前記の時刻が変わり、又は便が増発されていたのか、或いは船便の都合だったのかもしれない。
ところで、この記念碑建立を提言した知人の市議Iさんは、(『東海の小島の磯・・』)の地は蕪島でないかと思う、啄木の旅先には、「東海の小島」と思われる島は見当たらず、彼は尻内の姉を何度か訪れ、有名である蕪島にも往っているに違いない、と云っている。確証の欲しいところである。
東北本線開通時の尻内駅周辺は、写真や記録でも判るように人家も数戸、本村から一キロ、八戸町中心からは五キロ余も離れた辺鄙な場所であった。八戸町民が鉄道と共に「疫病」や「悪習」が入りこむのを恐れた為とか、鉄道会社の技術的、経営的理由とかいわれているが、盛岡以北一番の交通の要衝であることに昔も今も変わりなく、明治二十七年には馬渕川に鉄橋が架けられ尻内・湊間の八戸線が開通している。配置されていたSLも、明治三十九年国有化された当時、青森が僅か六輌なのに尻内は十二輌で、その一輌が今も交通博物館に保存されている。その尻内駅は明治三十一年二月に、機関方同盟罷工の発生地となり、日本資本主義の近代的発展に大きな影響が与えたが、一昨年九月、八戸駅前ユートリー南側小公園に「日本労働組合運動発祥之地」として記念碑が建てられた。
私か学んだ地元三条小学校の校歌に「交通十字鉄輪の、巡るも早き文明に、浴して止まぬ我が里は」との一節があるが、鉄道はまさに文明と経済の発展の利器といえる。一番町は、八戸駅と共に発展し、今日を迎えている。啄木や同盟罷工の記念碑建立が八戸新幹線開業と併せ観光だけでなく、八戸の文化、文学に寄与することを期待したい。 このような記念碑の前に立ったとき、作者や事蹟に思いを致し、新たな感動や感慨を覚えるのは私だけではないと思う。八戸でも多くの人が、先人の作品や事蹟を文化的遺産として、後世に伝えるよう取組んで欲しいものである。