八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

戦後70年特別企画 その〈2〉いまから70~74年前 太平洋戦争と鮫町の戦禍

村井村治

 奇しくも4年前、鮫町も未會有の東日本大震災に見舞われ多大の被害を受けた。実家(石田家)も再建不能と判断せざるを得ないような甚大な被災を被り、5ヵ月後に取り壊し、 鮫町から姿を消した。家人が残した多くの書籍、書簡、資料等の片付け整理を余儀なくされていまだゴールが見えない現状にある。

 その中に、部隊からきた検閲済みの軍事郵便、役所発の名誉ある戦死並びに戦死者の市弊案内状、家人から応召や入営の通知状も多数出てきた。

 昭和20年8月15日、小生は小学4 年生で秋田県毛馬内町に疎開して雑音の交じるラジオを聞いた。11月初旬に戦禍で焼け跡となり、炎の残る野積みされた硫黄の燻ぶりが眼にしみるなか、故郷の伯父の家に辿り着いた。機会をみて八戸の実家へ戻ったところ、前庭の部屋と庭石、庭木が直撃弾で吹っ飛んでいて、一階のガラス戸や障子、襖、廊下なども大半が壊れ柱が残るだけ。破損部分から人が侵入ができないように横板で応急措置がなされていた。

 思えば開戦当初から連戦連勝、街には軍艦マーチが鳴り響き学校でも勝利することのみ教えられてきた。 戦局が厳しくなるにつれ、鮫町にも陸・海軍の施設整備や兵員の配備が進み、18年11月、海軍の電波深信儀基地が葦毛崎に、その丘の上に陸軍の目視による監視哨も出来た。

 19年7月には、陸軍の重弘連隊が鮫小学校に駐屯し、学校が兵舎となり講堂までが間仕切りの部屋となった。4ヵ月ほどで戦地へ出発したが、 夏休み前は杉林の林間教室で学び学期に入っても講堂は連隊本部となり兵員以外の出入りできなかった。

 垣間見たところ、つぎはぎの軍服、ゴム製の軍靴や藁草履はきの姿もあった。食事も赤飯だと思っていたのが喉にゴソゴソあたるコーリャン飯が主食であった。校庭の演習には荷車に木製の戦車がある。目にするものは強い無敵の軍隊の期待に反するものに見えた。

 20年7月、予想もしなかったグラマン艦載機による空襲があり防空壕に入る本番を迎えた。燃え盛る木造船や蚊帳がぶら下がり、チロチロ燃える民家の残骸が散らばる道路。機銃掃射で手や足に重傷を負い戸板に乗せられた兵とトラックの荷車へ同乗するなど、戦場の悲惨な雰囲気の一端を体験することになった。

 幸いにして戦後70年、日本は戦争のない道を歩んできた。片付けの整理のなか、戦争に関わる郵便を手にとり、改めて平和の尊さを噛み締めている。戦争に大義は決してありえない。だから開戦の端緒を開いてはならない。

(会員)