八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
十月期の講演会報告
小渡康朗
十月二十三日に講師として音喜多勝先生をお迎えし講演会が開催された。タイトルは「55年年前の天城山心中——愛親覚羅慧生と大久保武道」。
永らく八戸高校にて教鞭をとり最後は八戸中央高校校長で退職された講師は地元小中野新町で大久保家と近所付き合いの仲だったため今回の講演者として適任者としては適任であった。
大久保武道の父、弥三郎氏は八戸の素封家で喜多屋商店を経営するほか多くの会社の役員をしていた。九州帝国大学に学び思想的には大川周明、安岡正篤、北一輝等の流れを汲む日本主義者であった。武道も幼少よりこの父の薫陶を受け質実剛健の少年として育った。
一方、愛親覚羅慧生さんは清国の正統であり、のちの満州国皇帝に擁立された愛親覚羅溥儀の実弟溥傑を父とし侯爵嵯峨実勝氏の娘、浩さんを母として生まれ、戦後、父方の嵯峨家に身を寄せていた。
武道と慧生さんは昭和31年4月学習院大学国文科に入学し運命のスタートを切る。学習院は戦前の皇族・華族の教育機関であり戦後に一般へ開放された大学であった。慧生は幼いころから付属で育った上品優雅、聡明快活なクラスの中心者、一方武道は坊主頭で流行らない円形のメガネをかけ、顔はニキビ、しかも天気のよいのにゴム長靴を履いている。上流社会の子弟の多い学習院としては型破りであった。
二人は6月頃から次第にその距離は近くなっていき曲折をかさねながら二人の間の純愛を育んでいった。 しかしいくつかの障害が横たわっており、特に慧生さん側には家庭環境の違いが障害となった。無理からぬことである。武道も心身を鍛え、努力を重ねていくが身分の差はどうしようもないなか精神的にはますます惹かれあっていく。そして昭和32年の運命の日に向って過ぎてゆく。武道は入学以来、文京区の学生寮(新星学寮)にて生活をおくっていた。(慧生さんは神奈川日吉の嵯峨家)
昭和32年12月4日午後10時頃学生寮に電話があり「武道氏が帰っているかどうか」という問い合わせが愛親覚羅浩さんからあった。次の日、 本富士署より電話、愛親覚羅夫人と数人が来寮、次いで12月4日付け慧生さんからの封書が寮に届く。5日より伊豆方面中心に捜索隊がでる。12日天城山八丁池に近い叢林の百日紅樹で二人の死体が発見された。後日の調査によると二人は4日の朝、貯金をおろし、その金で武道は自分の靴を買い、慧生さんにはエンゲージ・リングを買い与えていたことが判明した。慧生さんはその指輪をはめ武道は新しい靴を履いて死んでいた。枕元には二人の爪と髪が紙に包んで埋められてあった。
二人の死後4年たった昭和36年1 月、大久保武道と愛親覚羅慧生の遺簡集「われ御身を愛す」(鏡浦書房) が出版された。
二人の手紙は会って間もないものから死ぬ直前のものである。武道から慧生さんへの書簡は慧生さんから、 慧生さんから武道宛のものは武道個人によって八戸在住の武道の母親宛に送付されていた。その郵便物には 32年12月4日付で、武道発送の分は落合長崎局、慧生さん発送分には目白局の消印が捺印されてあり、したがって、これらは二人が家出した日の朝、投函したものと思われる。慧生さんからの武道の手紙は、12月5 日付以前のものと以後のものとの二束に分け、赤いリボンで結び、慧生さんの筆跡で12月5日付以前のものは「婚約前」、以後のものには「婚約後」と明記されてあったと言う。