八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

北千島での戦争体験記(中)

三上秀光

 九月末にはみぞれが降り、十月には降雪、十一月からは零度以下の日が続き、マイナス一〇度以下、風速三〇メートルの海水混じりの猛烈な吹雪が一週間も続くことがまれではない。顔面に当る吹雪は針を刺すホロムシロ島の冬の夜は長く、十二月、 一月は一八時間も夜で夏はその逆であった。

 一九四四年の秋に漁場労働者は全員が引き揚げ、漁場構築物は軍用に転用され陣地構築に利用されることとなった。九一師団の兵力、二万で北千島の守備にあたる。また、シュムシュ島の片岡地区には海軍陸戦隊、約三千人いると言われ、ホロムシロ島には飛行場が四ヶ所あると言うことだったが、本物の飛行機は見えずべニヤ張の偽装機。定期便のように飛来する米軍艦載機を迎撃する交戦機も見当たらず、雪原に覆われた洞窟体地から敵機を望見するだけだった。

 師団司令部のある柏原地区は北千島の北西端に位置した最大の漁業基地。最北端の高台には「北の合」飛行場があり、三キロの海峡を挟んでシュムシュ島に接しオホーツク海に沿い南の磐城地区と続く、「先」部隊は柏原地区と「北の台」飛行場の防衛が最大任務のようであった。

 磐城の地名は、明治初年、郡司大尉が千島探険に赴いた軍艦「磐城」 が停泊したことに由来すると聞いた。

 配属と同時に、毎日「水際作戦」という海岸線陣地の構築に当たった。 みぞれが降り始めた九月、突然に海岸線陣地を放棄。「山地洞窟龍城作戦」と師団の命令により山地に二キ口以上の後退する事となる。サイパン、テニアン玉砕の戦訓だと言う。

 十二月の初めに「三八式」一〇㌢カノン砲は、部隊半数の四百人の動員で岩石を除き、はい松を倒して降雪を固め、標高が千メートル烏帽子山の山腹二七〇メートルに高地洞窟陣地を築き曳き据えられた。

 各中隊は小隊・分隊単位に分かれ洞窟に入った。私の歩兵砲小隊(隊長川島曹長、分隊長健名軍曹)二〇名も十二月に海岸からおよそ三キロ奥の三五メートル高地に洞窟陣地を構築し立て籠るため、砲や弾薬、食料をソリで曳き移る事になった。

 烏帽子山麓の海側から見えない谷間に、延べ一八〇メートルの洞窟を四人一組、三交代でツルハシを穿ち立てて籠もる準備に入った。掘削用のツルハシ等の道具及びその修繕機具、石炭もすべて漁場を解体した資材を利用し、鍛治用フイゴは大工の経験者が造った。

 洞窟は「ヨ」の字型に三本を堀上、 奥を通路でつなぎ、真ん中洞は砲を引いて通れるように洞を拡張、高地から海岸の平地に向けて砲口を設置した。入口は吹雪や寒気が入らないようムシロと頑丈な板戸で覆った。

 また、一端を居住洞とし板にゴザを敷き、ドラム缶で炊事用兼暖房炉を造り食料・飲料水の保管場所とする。燃料は遠い松などの生木であった。

 もう一端を砲、弾薬、カーリット爆弾などの兵器格納庫洞とした。燈火にはトッカリ(海豹)油を使用、 トイレは洞外の這い松の下に雪囲いした造りで夜間や吹雪の際の用便は大変であった。

 岩盤の火山島だけに掘削は容易でなく、一日がかりでも一〇センチも進まない時もあり、時にはニメートルも進むことがあった。硬い岩盤は黒色火薬を発破に使い、軟弱な場所は落盤に備え坑木を組んだ。これには北海道出身の炭鉱経験者がものを言った。廃石はモッコで担ぎ出し、 空襲に備えてその都度、雪で覆いかモフラージュした。

 洞窟内は、掘削が進むにつれ、海豹油の生臭い匂いと油煙が漂い、酸欠予防のため作業をしばしば休止せざるを得ないことが多かった。

 二月末頃から海側からも掘削を開始。洞窟の測量・設計・掘削の作業はすべて健名分隊長が中心であった。 測量器具は砲から取りは外した照準器(砲帯鏡)・水平儀・巻尺だけで、 両端から掘った。おおよそ一〇〇メートル洞窟が接合された時の食い違いが上下左右わずか五〇センチ以内であった。

 私は四番砲手で三角法も勉強していたので測量に手伝わされたが、分隊長の知識技量には感服させられた。 洞窟陣地の構築や洞内の生活は六ヶ月、一九四五年の五月末に完成する。 健康に害だと言うことで雪解けを待って洞外に掘立小屋を造り移ることとなった。 《次号に続く》 (会員 東京都在住)