八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

会員寄稿 三浦哲郎氏生誕90年記念 神奈川近代文学館展に寄せて

村井村治

 小生と三浦哲郎さんの出会いは高校まで一緒だったM君の父上が経営し、八戸出身の学生たちが利用する東京・駒込にある「青雲寮」でのことでした。

 同期の学友や漁業関係者の子弟が多く、最年長の先輩として紹介され挨拶したのが三浦さんでした。精悍な風貌とキリッとした瞳が印象深く、 文学青年の風情に溢れておりました。 この駒込を舞台にした芥川賞受賞作 「忍ぶ川」の著名作家になられるとは知る由もなく・・・。

 受賞後に八戸で会った「青雲寮」の先輩たち。下宿生活を三浦さんと共にしたことから今度は誰が小説のモデルになり、悪巧みに長けた者が小説の素材とし世間に喧伝されかねないと心配、戦々恐々だったことを想い出します。

 三浦さんは八中時代、バスケットの選手として活躍「ハヤブサの哲」 として鳴らし、国体で全国3位となる主軸選手の一人でした。近くの八高女にコーチとして招かれることもあり、端正な顔立ちでスタイルも良く、頭脳の明晰さからモテモテで仲間から羨望されたとか。

 当時の八中生は八高女の運動会を杉木立の間から垣間見るのが精いっばい、思いを寄せようが儚い片思いが精々という時代なのだから当然だったでしょう。

 苦学された三浦さんですが、白銀中学校の助教諭として八戸に赴任した当時から小生の兄・村次郎との交友が始まり、折に触れ書斎の隣室に寝泊まりすることもありました。早大の政経学部から文学部仏文に進路を変えて再度大学に戻る動機となったのはご本人の意思に加え、兄の影響も大きかったのでは・・・。

 兄は慶大文学部卒で、家業の傍ら詩の創作意欲が旺盛で、強烈な個性と独特の感性の持ち主でしたので、感化されたのは想像に難くありません。

 大学に復学の三浦さんは上京し数年間「青雲寮」に下宿したのです。 大学を卒業し、新婚の奥方と三軒茶屋の三宿に間借りをしていた時、小生の下宿先が近所だったので夏、冬の休暇で帰省し、上京の都度、兄からの依頼品を三浦さん宅へ届けました。手っ取り早く裏庭から縁側越しに用事をたすのが常で、和室で簡単な机を前に執筆される姿も。ある日、 廊下の片隅で「ネンネコ」を羽織り七輪で鰯の目刺しを焼いている微笑ましい場面も目にしました。

 兄に上京の機会があり三浦さん夫妻と小生の3人で羽田空港へ出かけたこともあります。

 三浦さんは三宿から3年ほどで転居され、その後「忍ぶ川」が完成したのでした。後年、七戸ロータリークラブの講師として招き、夜に懇親会が開かれました。宴もたけなわ、 八中当時の想い出ばなし中、以前、 コーチとし教えていた女生徒で社長夫人となった方が演出で突然宴席に入場したときは、さすがの三浦さんも顔色がさらに紅くなりました。往年のスター選手も居たたまれないほど照れていたのには満場爆笑で「芥川賞作家も人の子」とばかりに盛り上がったものです。

 兄のところには三浦さんからの20通ほどの書簡があり、中には様々な事柄を記述したものがあります。実はある事情で兄と疎遠になっていることを三浦さんは気にかけていることも知りました。三浦さんの生誕90年を前に、文学には縁遠い小生ですがその出会いの一端を記述してみました。

(むらい・むらじ=会員、八戸在住)