八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

会員文芸・論壇 八戸八景考(その三)「地蔵尊夕照」

三浦福壽

 石橋次常が八戸藩の御用商人西町屋に関わる人物であろうと推測して話を続ける。

 八戸藩が成立した寛文四年から数えて八十三年に達していた延享四年 (一七四七)に次常の献額が叶った。 その和歌のうちに地蔵堂を入れたのは、そこに深い想い入れがあってのことと想定できる。

 それは八戸藩創立のころ地蔵堂を中心に引き起こされたある出来事に由来している。

 中里数馬。聞きなれない名前かも知れない。その彼が南部直房になる前の話である。

 数馬は盛岡のお城の近くに屋敷をいただき、母方の中里姓を名乗っていた。南部信直が領地巡見のおり、 縁あって中里氏の娘とのあいだに生まれ、当主重直とは異母兄弟であった。

 三十七歳になっていた数馬は二百石の捨扶持をもらい無役のまま無目的な毎日を過ごすばかりであった。

 ところが寛文四年(一六六四)のこと、南部藩主南部重直が跡継ぎを決めないまま死去。

 これは南部藩にとって存亡の危機であった。藩論が三分し分裂と混乱を招いていった。そうした中にありながら数馬の名前はまったくその候補にすら出てこないままで推移していた。

 そうしたおり、数馬の生母(のちの仙寿院)は自身と数馬が誕生した故里の閉伊郡中里村にあった延命地蔵尊に開運祈願のための名代を送った。家臣の梅原佐門と高橋(野田) 勘五郎の両名を遣わしての祈願であった。

 まもなくして、生母に不思議な霊夢が降りたという出来事があった。 生母はそれが気になっていた矢先、 同年十二月六日、従兄七戸隼人と中里数馬の両人に幕府から登城せよとの達しがあった。

 両家とも何の沙汰か皆目つかめないまま慌てふためきながら江戸城中に入った。

 この南部家のような騒動の場合、 従来であれば武家諸法度に従い領地召し上げお家断絶となるのが筋である。

 ところが当時、同様の事例が東北諸藩の中に数藩あった。解決しないまま越年していた藩もあって幕府は苦慮していた。

 幕閣は南部家の後嗣問題でこれ以上余計な騒動を起こしてもらいたくなかったと見え、特別の計らいでもって穏便に処理しようと考えた。

 結局、一旦お家断絶のかたちをとって領地の召し上げも改易もないまま処理された。

 その年、十二月二十八日に再登城した両人に幕府の裁定が下った。

 七戸隼人は従五位下大膳太夫に任じられ南部重信となって盛岡八万石の大名に。中里数馬は従五位下左衛門に任じられ南部直房となって八戸に新領地を与えられ八戸二万石の大名に決まった。

 こうして慌ただしく船出した八戸藩。明けて寛文五年の夏。八戸の居城も整い始めたものの商業街区までは手が回らずじまいであった。

 それでも家臣団の編成が終わり藩士も落ち着くにつれ、商業区の表町の整備も始まった。藩はまず在地の商人に協力を求め実行に移していった。

 根城地区からの商家は三日町、十三日町、二十三日町へと移住させ、 新田(新井田)からの商家は八日町、 十八日町、二十八日町へと移住させて、街区形成が徐々になされ始めていた。

 西町屋(藩からの要請で新田の西町にあった石橋家)は、これを請けて二十八日町に移住、藩の御用商人としての特権を与えられた。おそらく町屋の取りまとめ役を仰せつかっていたと思われる。

 町屋の建設が思うように運ばないでいるうちに、 盛岡から直房の生母仙寿院と直房室の齢松院、そして子息の武太夫(のち直政)らが思いのほか早く移住した。

 城内に落ち着いた仙寿院は延命地蔵尊から得た運命的霊夢のことを片時も忘れていなかった。

 藩の機構も運営する体制も出来上がり、直房入城を待つばかりの時、仙寿院はあの延命地蔵尊を中里村から八戸へ遷座させたいと考えた。

 おそらくこの時、西松屋を通して東回り航路の廻船を利用し、陸中の小本の船渡から、八戸の湊村の河口まで別仕立ての舟で地蔵尊を曳航させてきたように思われる。

 河口の小高い丘がまさに「上の山」。浜通りの人々から親しまれてきた。 日和山で、ひとまずここに安置となった。

 直房が寛文七年に参勤のため江戸へ登って警護の役を勤めあげ、翌八年四月、二度目のお国入りをはたした。久しぶりの家族との再会であった。その喜びと直房の無事お国入りの報恩感謝の念を伝えるため齢松院は「上の山」に詣でて地蔵尊に報告した。ところが。その夜今度は齢松院の身に不思議な霊夢が降りてきたのだと言う。

 おりしもその翌朝、八戸藩にとって衝撃的な危機と悲劇が待ち構えていた。家臣によって直房が暗殺されたと言うのである。誰も予想だにしなかった。この事件は謎が多く、別の機会にゆずる。

 やがて二代直政の時、西町屋徳右衛門から藩に対してある申し出があった。時代は元禄。その申し出とは延命地蔵尊を「上の山」から西町屋へ遷座させていただきたいとの願いであった。

 これに対して藩は西町屋の裏屋敷を借り上げるかたちで安置。そこは丁度、真西にお城が望める位置であった。

 石橋次常は延命地蔵尊と西町屋の歴史的背景や因果関係を知った上で八景のうちに「地蔵尊夕照」を入れたものと思われる。

その一首

ところ得て さそや光もにほやかに 入り日を法の庭の夕はへ

 直房を取り巻いた人々を見守り続けてきた地蔵尊がやっと安寧の場を得ることが出来た。ここから西方を望むとお城がありその光は一段と煌びやかで美しい。 その荘厳な夕映えはまるで仏様の教えのように庭の草花に語りかけているようでなおさら心が安らぐ。

*訂正とお詫び「八戸八景(その一)六行目の延享五年(一七四八)は延享四年(一七四七)の誤りでした