八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
会員文芸欄 盛岡藩家老席日記に見る火災
伊野忠昭
私のすんでいる三沢市は、藩政時代は盛岡藩領であったので、弘前藩、八戸藩と違って地元に歴史資料が少ないので、盛岡市まで調べに出かけなければならない。
余り地元の歴史資料に触れる機会が少なかったわけである。最近になって盛岡藩の家老の日記、家老席日記が家老席日誌覚書の名で「慶応編」「明治編」が東洋書院から、家老席雑書は第十六巻から第十八巻まで同じく東洋書院から出版された。
第一巻から第十五巻まで盛岡市の熊谷印刷出版部から刊行されていたのでその後を引き継いでいるものである。
寛保三年(一七四三)十月三日の日誌に当時の南部藩と秋田藩の藩境現在の鹿角市の毛馬内の番人からの聞き書きに能代の大火についての記述がある。
九月廿三日の夜半から廿四日にかけて、町を全焼し、木材の集散地らしく材木囲蔵不残焼失、土蔵数百三十程、家数三千軒、人は十二、三人焼死とある。近代に入ってからも能代には二回大きな大火があり、一度は昭和二十四年(一九四九)二月廿日に焼失家屋二千四十戸、二度目は昭和三十一年(一九五六)三月廿日焼失家屋一、四八二戸であった。
盛岡藩領ではこの能代ほどの大きな火災は記載されていないが、百戸を越える焼失家屋の火災は結構多い。
享保十七年(一七三二)三月には盛岡で寺院六ヶ寺を含む三百五軒が焼失している。
大火は幕府への届が必要だったようで、享保十四年(一七二九)十月には野辺地で町屋百六十二軒、土蔵十三、家来屋敷十一軒、足軽屋敷十五軒、高札場一ケ所、社一ケ所焼失の書付を御用番酒井讃岐守へ藩の江戸の留守居が持参届出ている。
風の強くなる冬を迎えて、昭和三十六年(一九六一)五月の白銀大火五百八十三戸焼失、罹災者四千一百五十二人、昭和四十一年(一九六六)一月の三沢大火四百五十戸焼失、罹災者二千一百五十二人を思いだすが、家老席日記を読んで藩政時代に生きた人々を偲び、この変わらぬ風土に思い致すのである。