八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
特別寄稿 横須賀海兵団へ-電測兵日誌(下)
中村英二
このまま戦争が続くとすれば、海上封鎖されて日本に帰れなくなるかも知れないと心配になって、本社の人事課に帰国の申請を願い出た。本社からは「在支三年間にも及ぶので、帰国を認めよう」との連絡が入った。そして昭和十七年二月、上海丸で日本の土を踏んだ。
帰国して、東京でしばらく勤務していたが、東京では食料事情が窮迫を告げ、このままでは飢えて死ぬようなこともあるのではないか。そこで東京を引き払って、友人のツテを頼って八戸の船会社に世話になることになった。会社から辞令を受け取り、ほっとして帰宅してみたところ、そこに待ち構えていたのが思いもかけない赤紙で「横須賀海兵団に入団せよ」との召集令状であった。
昭和十九年五月三十一日、これも「自分の運命」と海兵団の門を潜る。生まれて初めての兵隊であった。海兵団では八戸出身の下士官が数人すでにおり、何かと面倒みてくれたので大変心強かった。その後竹山海兵団に移り、カッター訓練などで二ヶ月ぐらいとことんしごかれる。
ある日、突然数人ほどが呼び出されて、「お前達はこれから佐藤兵曹長に付いて出発せよ」との命令を受けた。早速、行先が知らされないまま、午前九時に出発し、麦畑の中を長時間歩き、午後三時頃目的地に到着した。
位置はよくわからないが、バラック状の建物が数棟あって、門柱に海軍電測学校とだけあった。電測とはどこかできいたことがあると瞬間思ったが、つまりはソナーかレーダーの学校である。ところが私は電気関係はあまり得意ではない。学校では化学を少々習った程度である。しかし、軍隊は知りませんでは通用しないところである。上から命令されたらつべこべいわずにそれに全力で突き進むしかない。
この電測学校では、朝起床して食事をとる以外は、途中で体操をすることはあっても午前中から夜の十時まで集中的な講義ばかりであった。
我々はあたかも鶏小屋の鶏よろしく囗をこじあけてエサを与えられるように、電測技術のすべてを押し込まれるという速成教育であった。
そして、ここでは今までの水兵でなく電測兵と待遇が変って、二等兵曹として桜マークをつけることになった。三ヶ月間の学科訓練が終ったら原隊に戻されるかと思っていたところ、全然見当違いの、横浜に本部がある船舶警戒本部へ向うようにとの命令がでた。
実は、そこは徴兵者や志願兵などの若者と共に、我々三十過ぎのオッサンともどもが貨物船に乗せられ、軍艦の護衛を伴って出港する根拠地であったのである。
昭和十九年十一月、我々の乗る船が決まる。ある夕食時、スピーカーによる呼び出しがあった。「読みあげられた者は直ちに身仕度をして神戸港へ行き永祥丸に乗船せよ」と。
早速神戸に赴いたところ、その船はまだドック上に乗っかったままであった。私達三十八名は、毎日のように神戸の街をうろうろするが、神戸は仮死状態の街に似て開いている店は殆どなかった。二週間ほどして船はようやく進水し、試運転のため三池港へ向けて発ち、数日後に石炭を積み込んで尼ケ畸まで帰ってきた。
ただその作業ぶりは、荷積み、荷揚の仕方がいかにもにぶく、その上船足もおそいのが目に焼きついていて、大丈夫だろうかといささか不安であった。
昭和二十年の元旦は大阪で迎えた。大阪も神戸同様、街中は全部大戸を降ろし、人影もまばらであった。お正月のせいかも知れないと思っていたが、戦争の暗い影はぬぐえなかった。
一月十一日にようやく船は動きを開始した。こんなのどかな事を述べると、我々は船にちっとも関心がないように思われるかも知れない。そう指摘されるのはごもっともで、我々の任務は、船舶警戒兵となっており、敵がきたならば命令に従って動けばよいという役割であった。
しかし、いよいよ私の戦いの日々がはじまったのである。