八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

当クラブ創設15周年・第15回記念 三市ペンクラブ交流会 「本のまち・八戸を 本音でトークする集い」が熱気

 八戸ペンクラブは創設十五周年を記念、第15回となる3市ペン交流会をこれまでとは「趣」を変えた形とし9月1日八戸市の中心街で開いた。当ク会員や弘前、青森両ペンク幹部ら、地元市民や三沢市・盛岡市から合わせて40人を超す参加があり、トーク者の小林眞八戸市長たちを前に熱心な意見を交わした。

 小林市長が提唱し整備された「八戸ブックセンター」。記念イベントには弘前ペンクの斎藤三千政会長、 木村和正事務局長ら4人、青森ペンクからは梶浦公平会長、秋村健二理事が出席。出席を呼びかけていた三沢ペンクラブからは催事が重なり、次回からの参加を伺わせる連絡を受けている。

 一行はガーデンテラスビル1階の八戸ブックセンターをまず参観、4 階「サードプレイス」に会場を移した。 トークのパネリストは小林眞八戸市長、音喜多信嗣ブックセンター所長。 畑中美鈴当クラブ理事をコーディネーターとし市民ともども本音で2 時間近く本のまち・八戸を語りあった。まず当クラブの吉田德壽会長が遠来の参加者たちへ感謝、歓迎と意義ある議論展開を期待するあいさつ。

 小林市長、音喜多所長から本のまち提唱への思い、利用者から出される意見などを聴き、質問者は私論を交え本音に迫った。さらに同センターオープン以前から市内書店組合幹部、センター委員を務める田中麗子当ク理事からはオープンに至る議論、センターと書店などの棲み分けなども披歴願う配慮に及んだ。

 トークイベント後、同会場で3市ペン交流、懇親会へと移った。交流会では3市ペン会長らがあいさつ。 小林市長ほかトーク者、東京から駆けつけた竹内修司元文藝春秋常務 (当ク顧問)、三浦哲郎文学顕彰協議会の宮忠副会長らも加わり歓談を繰り広げた。

(まとめ=八戸ペンクラブ、小瀧勇副会長)

〈考察と主たる質疑応答···〉

 近年、八戸市の中心街に公共施設の立地が相次ぎ「はっち」を皮切りに「ブックセンター」、「マチニワ」 と開館している。二○二○年度には市庁前へ新美術館の開館も報じられる。民間による複合ビル工事も着手され中心市街地活性化という音が響く。中心街活性化政策について、八戸ペンクラブでは、毎週の「月曜サロン」で誰言うことなく話題になっており、一連の公共施設、将来に向けてのあるべき姿などを探ろうとする機運が醸成されていた。

 現在、八戸市の中心街と称する藩政時代の八戸藩城下町は、南部氏第二七代当主で、盛岡藩初代藩主である南部利直の発想。寛永七年(一六三〇年)ころ「縄張り」といい、街づくりの始まりとされる。八戸城から長横町方面の道路着手だ。

 そのルートである元八戸消防署の前ロータリーは、明治十四年、明治天皇が東北巡幸の際、一泊した八戸尋常小学校講堂が新築されていた場所。それを記念し昭和十年、明治天皇八戸行在所舊(旧) 祉の石碑を建立、史跡に指定される。

 八戸市は、鮫村・湊町・小中野町・八戸町が合併、「市」になったのは、昭和四年五月一日だが「市」 は都市計画法の指定を受けることになる。昭和六年一二月一日に、八戸市全域と当時の大館村の一部(新井田・妙・十日市)の一市一村で法が適用され、昭和八年十月三十日「都市計画区域」が決定されている。これが八戸都市計画の施行について法的根拠が定まった最初となる。

 昭和十一年四月には、都市計画街路・土地利用のための用途地域(住居地域・商業地域・工業地域)が決定された。その後も、幾多の都市計画変更を重ね、中心街を含め、八戸都市圏が形成されてきた。合併前の町村には、それぞれ商店が集約された地域があったが、副都心的地域の規模までの広がりを見せていない。 終戦を転機として八戸市は都市の性格も自ら変化し、背後地の資源開発促進に伴う臨海工業地帯として、 また北日本の中心的工業都市注目されてきていた。

 その後方施設である住居は未指定地に乱立し、各種工場も必然的に付随して拡大整備され、日毎に乱雑な市街地が形成されつつあった。かくして工業地域は言うに及ばず住居・ 商業地域が飽和状態に達すると考えられ、それら解消のため二十八年〜二十九年の二か年で「都市計画基礎調査」を実施した。

 結果として、昭和三十一年十月八戸市全部・三戸郡大館村全部とする都市計画区域の拡大の変更をし、 次いで、昭和三十二年一月には、既定の都市計画街路を廃止し、新たな街路計画網の変更決定をしている。 さらに昭和三十四年三月には、用途地域を拡大する大胆な変更を実施した。一連の都市計画変更が、現計画の原図となっている。

 三日町界隈は、この新八戸都市計画においても県南地域の中心商業地区として、集中して国税・市税が投下されてきた。公費負担については、 「費用対効果」という検証を希求されることになる。一方、地元の商店街では歩道にアーケードを整備したり、歩道を拡幅する目的で建築物をある一定線まで後退させる「壁面指定」、近年では電線等地中化、デザインされた歩道・街路灯整備など地元負担をいとわず、人が集まる拠点にふさわしい街並み形成を図る努力が重ねられている。全国的に自家用車時代が到来して久しいが、郊外型のショッピングセンター建設が台頭し、八戸だけにとどまらず、中心街が寂れるということも続く。

 八戸にはまた中心市街地と郊外型の開発整備の両方の事例がある。八戸市は、効率的で、魅力ある都市づくりを進めていくとして、座して待ってきたわけではない。積極的に都市計画法の改正に準じて、政策が講じられている。その代表的な事象に、 昭和五十三年十月、県内初の中心街における「十三日町・十六日町地区市街地再開発事業」と郊外型の「沼館地区再開発促進地区」事業である。

 前者は、低層の木造家屋が密集し、 細分化されていた土地を統合し、合理的・かつ健全な高度利用と都市施設の更新を図るため、建築物の容積と建蔽率の最高・最低の限度を定め、高度利用地区として不燃化で、高層化された大規模商業店舗の建設と併せて、周辺の道路・歩道の公共施設が整備された事例だ。

 中心市街地の活性化は、市民の「意識やライフスタイルの多様性」という自由選択から、過去の賑やかさを取り戻すことは至難である。公共投資を重ねても「地域に魅力」がなければ人は集まらない。活性化は、行政主導だけでなせる業ではない。今後、世代を超え、市民の知恵と八戸市の政策とが相俟って中心街活性化という永遠の課題に対峙していくことが肝要と考える。このような背景から、吉田会長が述べた八戸ペンクラブ十五周年を静かに祝い、また遠来の方々の歓迎の言葉や「熱い交流会」にしたい―と開会宣言したことは意義深い。

 これらの考察を踏まえ同日の主な事案を再録しよう。パネラーとしては八戸市長・小林眞氏、ブックセンター所長・音喜多信嗣氏、八戸ペンクラブ理事の畑中美鈴氏をコーディネーターとしたことは前述の通りである。

 まず、中心街の活性化という政策について、小林眞市長の発言が注目がされることは至極当然の事であり、会場はその生の発言を待っていた。市長の発言は慎重だった。深慮遠謀という四字熟語が脳裏に浮かんだ。筆者としては、「相当考え抜いているのだ」と感じた。走り書きの記録なので真意が聞き取れているかどうか自信がないが、発言内容の骨子を記しておく。

◇畑中コーディネーター―

本の街、 文化・芸術の街、街づくりについてまず伺いたい。(以下記録の順序は前後する)

◇小林市長―

行政の街づくりの考え方―住んでいる住民が、快適に過ごずためには、市民に仕事がある事と、生活環境を整える事が私の責任だ。八戸は交通では・新幹線・飛行場、高速交通の基盤が整っている。 水産業は、日本で上位五番目を行ったり来たり。昭和三十九年には新産都市に指定され、臨海部に工場が進出した。仕事を得るという有効求人倍率、スポーツ・文化・街への想い、 産業面においても地方都市としてそれなりのパフォーマンス(実行。実績。成果)がある。

市財政指数は、地方は通常三割自治0.3(地方自治体の地方税収入の収入総体に占める割合が30%)と言われるが、青森県内で、東通村、六か所村に次いで、財政指数0.65で(八戸市の自主財源は、65%の意)三番目にある。スポーツでは、屋内スケート場・アイスホッケー・サッカーを応援している。文化・芸術では、二 ○一一年、震災一か月前に免震構造の市民交流の場「はっち」を開館した。

市民とのコラボレーションについて、平成二五年に文化庁から文化・ 芸術・創造都市として表彰を受けた。 「ブックセンター」については①本に焦点を当てて、子供が本に触れる機会を増やしたい。②ブックスタートとして、1歳から読み聞かせし、 本にも親しんでもらう。三歳児で両親の読み聞かせを積み重ねたい。インターネットでは、紙の本が危機的で消えていく。文化を形成するため、地方都市として、書店ではなく「本の街」としていろいろ考えながら実際を探りたい。

◇畑中コーデネーター―

本が、心の糧となり、その豊かさを生かしたいという市長の話と捉えました。

◇小林市長―

「本の魅力」・「ブックセンター」について ブックセンターは、私の趣味でやっていると言われかねない。私は本が好きである。男親は本を読むが、 母は読まなかった。高校時代は自転車通学をしており、帰りは(大杉平〜白銀まで)、三日町の「伊吉書店」 の二階の専門書本棚のところで過ごした。小中野では、「木村書店」の店員さんがきれいだった。学生時代は、一人の作家に拘って読んだ。『大菩薩峠』中里介山の長編小説や松本清張だった。

県職三年目に、国に出向した。一時間半の電車通勤で、本を読んだ。

◇大森不二夫さん(盛岡からの参加者=盛岡生活文化研究室長)—

「八戸ブックセンター」がここまで進んだ「コンテンツ」をどう考えているか。また「書店」との棲み分けの考え方を伺いたい。

◇小林市長―

当初は政策として具体的な「絵」はなかったが可能性として出来ないかと提案した。他でやっていないことであり、難しければ、 先送りも考えていた。検討が重ねられ、具体に事業化されることになった。施設整備には多額の税金が投入されており、市はこれから着実に成果を上げる責任がある。新装なった 「マチニワ」と一体で「ブックセンター」と思う。公共施設としてコミック・雑誌は置かない。選ぶべき本の検討重ねた結果、見ての通りの本棚でスタートさせた。文化の香りの高い街づくりと思っている。八戸は教育で、本の事を取り上げてきた。中学では本離れがある。親も本離れしている。しかし小さくても本に関心を示すということが分かった。本に対し多額の税金が使われていると質問を受けたことがある。読書は人間をつくることであり、偏見がなくなり心豊かになる。

◇音喜多ブックセンター所長—

(トーク会開催前一階での参観説明を含む)。開館から一年八か月経過した。本は、中・高年の年代に応じた品揃えである。五十年代の本離れがあり、本に触れて欲しいという思いがある。事業には二本の柱があり八〇〇〇冊の本を入れ替え・テーマとして飽きが来ないようにと考えていること。単純だが、本を、自分のものとして欲しいとの思い。もう一つ、イベントはゲストを迎えたトークイベント。来て見て・本を買って貰うというコンセプトだ。図書館との役割を区分している。ハンモックを活用し読書する来館者が増えている。備えのブースで自分史に取り組む愛好者もいる。「マチニワ」がオープンし回遊できるようにもなった。

◇田中麗子さん(「木村書店」経営者、 ブックセンター委員、当クラブ理事) ―

一九五六年「週刊新潮」発行。私が小学三年で、九歳の時だった。一九六〇年高度成長が始まる。一九七 〇年代 オイルショックで、本の価格が値上がりし、売り上げが二五% アップした。第二次オイルショックでは、五%落ち込んだ。九七年からこの方二十年売り上げが六〜八%下落。東北では毎年三十五店舗から二十五店舗が閉店している。東京では年に三六〇店舗減少している。

ナショナルチェーン店である大型書店での市民の購買志向が強く、地元書店に魅力がないと思われており、 顧客が減少しているのは確かだ。しかし、地元書店には配達制度があり、 お年寄りとの会話が進むという開面もある。ブックセンターと地元書店組合との連携は考えなければならない課題だと思う。

八戸には、江戸時代の誇っていい図書館の歴史がある。他市では、図書館は民間に管理委託し、運営されている例はあるがトラブルも多いと聞く。「ブックセンター」と市立図書館の役割分担が理解出来ない等の意見があり、目的など周知が必要と考える。

◇齋藤弘前ぺンク会長ー

ブックセンターで、『AIの革命』という本を買った。八八六円だった。施設設立の経緯と心意気に感動し、賛同したい。市長の市民・八戸を大切にする心が伝わってきた。十年〜二十年先を読む政治家であると考えた。

◇梶浦青森ペンク会長―

施設を見学して、贅沢な空間だと思った。私は年金暮らしで、本は図書館から借りている。“終活”は本を持たない。 若い世代は本に触れることが必要だ。私も高校生時代『破戒』や太宰を読んだ。本に触れさせる教師の力が必要と考える。(センターに置かれる)三浦哲郎の文机を見て、地域で作家づくりを盛り立てていると感じた。

◇瀬川政吉さん(「週刊八戸」代表)―

他都市の方の意見に興味があった。 「ブックセンター」には常に応援したいと考えている。公共投資について、一言でどう考えているか伺いたい。

◇小林市長一

人口減少→政策メニュー・医療費・財政力等いろんな面への公共投資があるが人口減少の面で、青森県内四十市町村中、八戸の人口減少は四番目。増は、六戸町、 おいらせ町だ。減っている三沢市や八戸市は人口について単純、簡単に比較できない。三十代〜四十代が東京を見限りUターン相談例もある。 中心街については、八戸らしい顔づくりがしたいと考える。「街が楽しい」と感じる市民がいるということを一番としたい。