八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

会員リポート 一八九六(明治二十九年) 三陸地震津波災害と復興(上) —青森県・三沢市の例―

伊野忠昭

 はじめに

 一八九六年(明治二十九年)六月十五日に発生した三陸地震津波被害から百十五年を過ぎた。この災害による死者は、青森三四六人、岩手一万八五八人、宮城三、四五二人、北海道六人、家屋流失、全半壊一万戸以上、船の被害約七千であった。 (日本近代総合年表第四版)

 青森県の死者のうち上北地方の当時三沢・百石村の漁業は鰮(いわし) 地引き網漁が中心で鰮を大釜で茹で魚粕と魚油に圧搾して分離し、粕は肥料として関東・関西方面に出荷し魚油は灯火に使われていた。漁家は仕事場が海に近かったので多くの死者と漁船のみならず住家釜場を流失し生活の場を失った。

 明治二十九年三陸津波の後、昭和八年再度の地震津波によって被害を受けたのであるが、前の津波の体験が幾分被害を少なくする契機となった。この昭和三陸津波からも七十八年を過ぎて、二つの津波ともに人々の記憶から薄れようとしていた。今年の三月の東日本大震災に至るまでにもっと関心を呼び起こす必要があったと思う。

 三沢村役場に明治二十九年大津波当時の詳しい行政文書が先人の努力で残されていた。この重要性に注目したのは東北大工学部の災害制御研究センターで、東北大学では三沢市に職員、学生を派遣して文書の写真撮影を数年続けていた。その後は岩手県立大学がデジタルカメラにより、 撮影記録し、研究成果は月刊海洋/号外NO28.2002北原糸子氏により発表されている。

 私が明らかにしようとしたのは、 この津波の災害の復興過程だ。

 このなかで復興過程に救援金、義捐金、恩賜金の配分を通じて国、県が漁船や網、釜場などの復旧のために、網元・曳子という伝統的な関係にとらわれることなく、生業としての漁業を復興させようとした強い意思を見たのである。

 明治三陸地震津波による被害

 三沢村の明治二十九年六月二十五日大海嘯溺死人調べによると死者一三二名、負傷五三名であった。家屋の流失および破壊二三八、納屋・一倉庫七三であった。

 被害額の推定

 上北郡役所・小林書記の上北郡三沢村漁船漁具流失調べでは

①地曳網二三個、この新網価格三万四五〇〇円一個一五〇〇円

②他の雑桐二九個この金七六〇円

③製造用具、納屋主の分二三箇所この金五、七五〇円一ヶ所平均二五〇円

④漁船四六艘、内破損八、流失一八、小破二〇、この金三二五〇円一艘八〇円、付属共計四万四二五〇円と算定している。

 救援金・恩賜金

 明治二十九年七月末にまとめた三沢村長の救援金・恩賜金の配分額である。これでは配分金額を三期に分けている。

 一期は、救助食科三七五円、一、 一二三名分,小屋掛科一、一八九円五〇銭、恩賜金四九四円五〇銭、恩陽金は分配基準は村長にも秘密で聞かれなかった由。

 二期は、追加分として救助食料に三七八円、一、一二三名分で規則の改正によるものとある。小屋掛料は九五〇円余、一七六戸分で規則改正のため三九名とある。

 ここで備荒貯蓄金から給与される農具料があるが、まだ給与されていないので金額は算出できない。農具料は一戸一五円の支給なので、被害者の中で農業を営むものは七〇名程なので、一、〇五〇円の見通しという。

 第三期は現在進行中のもので救助食料一、一七九円余一日米四合、一、一二三名分

 家具衣類料四、七二五円一戸一五円として、救助金六、三〇〇円、毎戸二〇円として三一五名。

 合計一二、二四○円一五銭となるが、小破の家屋が控除されるものとして、村長は確実な金額としては合計八、一七九円と見ていた。このほか学校の建築費と図書器械費は十一月三十日に義捐金四六〇円七○銭が寄せられている。また小学校教員および生徒に義捐金がよせられた。 また、その後も学校には前の二つよりは少ないものの救援金が寄せられている。

 次回は地震津波災害からの復旧の様子を述べて見たいと思う。 (三沢市文化財審議会委員)