八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

講師特別寄稿 八戸ペンクラブ新春講演会「八戸の生んだ野の天文学者前原寅吉」より 宮沢賢治と前原寅吉

前原俊彦

 宮沢賢治の名著「銀河鉄道の夜」 のなかで主人公 少年ジョバンニが病気のお母さんの牛乳をとりに町におりたとき、ジョバンニは三本の足がついた天体望遠鏡のある時計屋で星座早見表や宝石の入った指輪に見入ってしまうというシーンがあります。

 実は、一九二六(大正15)年8月に賢治は妹たち二人と甥とで八戸を訪ね、「陸奥館」という旅館に泊まり、 蕪島とか種差を見ただけでなく、八戸の町を散策した記録があります。

 そのとき、賢治は番町の「前原時計店」の前を何度も通り、その中を覗き込み好きな星座の図や銀河や望遠鏡の存在に心を魅かれ、記憶にとどめたと、おそらく銀河鉄道の夜は前原寅吉の店をモデルにして書かれているのではないか、と推測するのは歴史家の色川大吉さんです。

 色川さんは私が中学生のときから、 何度も八戸を訪れながら前原寅吉を深く研究しているひとりです。最近では「東北の再発見」(河出書房新社) という本のなかに詳しく前原寅吉と宮沢賢治の関係を書いていて、安藤昌益を世に知らしめたハーバート・ ノーマンさんのような役割を果たしていると思います。

 実は旅館「陸奥館」は賢治の妹たちの勘違いで、鮫町の「石田家」であった可能性が高いと思います。

 一九二四(大正13)年5月21日、 八戸町本鍛冶町、経木職人(現在の神明宮裏)のカマドの残り火から出火し、火は強い南西の風にあおられ延焼しました。6時間にわたり八戸町内を焼き尽くしました。前原時計店があった番町は運よく難を逃れ、 寅吉の愛用していた天体望遠鏡はじめ多くの大切な研究資料はそのまま残っていたと考えられます。

 その2年後、賢治が八戸の町を歩き回ったとき「銀河鉄道の夜」の原稿のヒントとなるファンタジックな店の様子はそのまま見ること感じ取 ることができたと推察でき、その年にほとんど書かれたというその原稿と時系列も一致します。

 前原寅吉の天文論文集には「人は生まれて成長し、そうして責務を果たして死ぬ。幾億の天体もまた、星雲から生まれ、成長して光を放ち、 熱が冷却して暗黒の星となり、ついに宇宙の微塵に化す。

 そこで真の意義なる生活の一瞬は、 実に永劫に連なるものである」と書かれています。その自然の摂理、人間の運命と違うことはない。そのことを体得すれば絶望などには負けないのだ。人々よ。子供たちよ。永遠の命の中に生きよう、と。

 これは宮沢賢治の精神性、農民が 貧しくて絶えず凶作に襲われて苦しんでいる。その農民をなんとか助けたいとして詩を書いたり、童話を書いたりして、肥料設計を無料でやったりして奮闘するのですがなかなかうまくいかない。いつも悲しんでいるというか、絶望感を宇宙に思うことで昇華していた。

 その中から「農民芸術概論」というすぐれたものを書くわけですが、 その最初の言葉が「まず。宇宙の微塵となりて四方の空に散らばろう」 なのです。この精神は寅吉の宇宙観とほとんど同じだと感じるわけです。 前原寅吉はただの時計屋でせいぜい天文学会に論文を提出する程度ですから、そんなに名前を知られることなく終わりますが、賢治は芸術家ですから多くの作品を残しました。

 ここがその後の分かれ道だったのかもしれません。しかしながら、この二人の魂が八戸で微妙に近づいていたことはとても驚きです。

 天文山 前原寅吉の論文集は失明後、寅吉に代わって家族や親戚、あるいは近所の学生たちがもともとの論文を書き写し、口述筆記したものです。これにはいろんなことが書かれており天文学のみならず近江商人の家訓、八戸地方の偉人達を調べるなど、世渡りの方法、手紙とか書信など哲学ノートと言っていいくらい中味があると思います。

 特に印象的なのは天文論文集の第 5節「天候ははたして人為によりて左右せらるるか」という一九一一(明治44)年に書いたものです。稲が身をつける夏のはじめ、北奥羽には冷たい湿気を含んだ「やませ」が吹き荒れます。藩制時代から、この八戸一帯はこれが原因で冷害に苦しめられてきました。凶作は冷害に強い稲の品種が一般に普及するまで続き寅吉の生涯だけでも10回以上はあります。

 彼が天体観測に関心を向けたのは太陽の黒点や諸惑星の増減と冷害とかが関連するのではないかと疑ってからのようです。彼の研究によると冷害は空気の冷却からではなく、土壌そのものの冷却から始まる。それは何によって起こるか。それは気圧の関係、つまり空気の潮流と書いていますが、これは地上の一部分に起こるいわゆる土地の病にして、ガス体の変化は気圧のごとく、少なきときは50マイル、100マイルと及ぶことあり、多きは2千マイル、3千マイルを侵すことあり。

 一九一三(大正2)年の場合はまさにそうだと考え、学会に論文を提出し対策を求めたのです。その年は三戸郡など13万6千人が欠食の困窮状態に陥っていました。寅吉はながく天文学を研究し、多くの冷害をつぶさに体験しながら、まわりの人々とともに悩み続けていました。寅吉も賢治も同じような風土のなかで一生懸命に生き抜いたと思います。

(株式会社マエバラ代表取締役)