八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
三陸復興国立公園記念論文 蕪島の坑道の謎解きへの誘い
村井村治
昭和二十一年の夏、蕪島周辺の海浜で子供たちが歓声をあげて水遊びができる日がやってきたのは、まだ国民学校の五年生の夏休みでした。 前年の七月、初めてグラマン艦載機による空襲があり、暑い中、防空頭巾を背に綿入れ拌機を着せられて、 秋田(鹿角市毛馬内町)の田舎に疎開しておりました。その年の十二月、 駅下の置場に野積みされた硫黄が燻る中、戦渦の残る鮫町に帰ってきました。
戦時中の後半、蕪島に近づく事は適わなかったのですが、吊り橋で渡っていた頃は、周囲がきれいな海で海草や魚貝類の豊富な島でした。
しかし、戦後の蕪島は、民家の石垣が続く砂浜から島まで埋め立てられ、陸地続きとなって道が出来ていました。また、島には南北に貫通した5本、東からも1本の坑道が掘られ、中央は岩肌剥ぎ出しの直径50㍍程の空洞になっていました。
その後、風化や雨水の浸透により内部の崩落が始まり、やがて空洞の上にある厳島神社の境内の一部が陥没して穴が開くようになり、危険防止のための復旧工事により昭和五十年になって島が以前の容姿にもどりました。
昔から、島自体がこの地方の守り神として崇められてきた蕪島が、戦時下とはいえ秘密裏に「人の手」によってなぜ変貌した島となったのか。
巷間噂として、「特攻用艦艇」の基地説、「爆雷等の火薬類」「大砲」 の格納庫説などが入り交じっていたのを仄聞してきました。しかし、坑道利用の目的の合理性から判断して 「特攻用艦艇」の基地説が、確証がないまま謎解きに一番可能性が高いものと推測してきました。
当時は、大東亜戦争も終盤となり、 戦線我に利あらずと本土決戦を余儀なくされ、八戸周辺の丘陵地帯に陸軍の永久要塞の陣地構築が始り、鮫町にも陸軍の塹壕、監視所・機関砲陣地や海軍の電波深信儀装備の鮫角特設見張所が設置されました。このような本土防衛の背景を斟酌すれば、 太平洋に面して敵の上陸可能適地として、東北の仙台湾の次に八戸周辺の砂浜海岸に思いが及びます。それに八戸港は、水産業のほか工場立地も盛んで、重要港湾の一つでもありました。
最近、海軍の小型特攻艇「震洋の基地設置要領の資料」をみつけました。この中の設置適合諸条件の関連事項に照らして、候補地になったその可能性を探ってみます。
まず、基地構築には秘匿が絶対条件とあります。蕪島は太平洋からは鮫角に隠れた位置にあり、頂上に厳島神社が建立されております。また坑道掘削工事の排出土石を陸路埋め立て用として目立たぬように処理できました。対岸は崖の続く丘陵で、 学校・魚市場・船の停泊地など近くにあり、利用できる背後施設にも恵まれていて、基地機能を果す諸条件は備えられていたと思われます。
次に「震洋」艇の一基地の配置基準は概ね55隻とありますので、蕪島の坑道の中央空洞部分を含む「長さ・ 直径」とこの艇の「長さ・幅・高さ」との寸法の比較から、坑道5本に各10隻を収容でき、計50隻の配置が可能でした。またこの艇の材質は、 木骨・合板製で、自動車のエンジンを搭載した比較的簡単な構造設計の一人乗りであったので、配置が容易だったようです。
その当時、蕪島の西側に海軍の格納庫があり、50個の爆雷が保管されていたことも分かりました。
この艇は、主として敵輸送船の舷側に肉薄して爆雷攻撃するために、海軍と陸軍双方で、各3千隻以上製造されましたが、基地から発進すれば、二度と帰還出来ない運命にありました。その大半は、沖縄戦に投入されたそうですが、構造が脆弱であったので、成果の程は芳しくなかったようです。
また、本土決戦に備えて、国内にも沖縄県から宮城県に至る太平洋沿岸に64箇所の基地が設置され、その一つで仙台湾の金華山にある宮戸島の基地跡には、今も坑道やレールが遺っているそうです。
これまで、戦時中に見聞したことや限られた資料を参考に、「小型特攻艇・震洋」基地説に絞り記述してきましたが、ここにきて防衛省・防衛研修所の資料に、八戸が「震洋」 の基地として図示された物や基地設定概位に八戸付近の「震洋」基地設置が記載された物がみつかりました。
未完成の基地でしたが、これで漸く謎解きの終点に辿りつく事ができ、 拙文の結びとなりました。