八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
会員特別リポート 昌益千住フェスティバル
吉田徳壽
※花開く千住の情熱 「安藤昌益 全国フェスティバルin千住」が十月十三、四日の両日、東京・北千住の東京芸術センターで開かれた。安藤昌益と千住宿の関係を調べる会(相川謹之助会長)など主催のフェスには全国から昌益ファン、研究者ら二百人余が集まり「いのちの思想家・昌益と千住宿の謎」に迫る議論を交え交歓した。
千住は昌益稿本「自然真営道」百一巻が発見されたゆかりの地。開催された十月十四日は知る人ぞで昌益の命日。調べる会のほか昌益研究界をリードする「安藤昌益の会」が催しを支えた。十五年前、千二百人を集めた「昌益国際フェスティバル・八戸」に規模こそ及ばない。が、昌益と千住の関わりなど研究成果を披歴し合い江戸時代に思いを馳せ、前年の昌益と千住宿シンポにもまして熱気いっぱいだった。 ※歓迎と基調報告 初日のフェス開催に当たり「調べる会」の相川会長、足立史談会の安藤義雄会長らが挨拶。「昌益稿本が千住仲町の橋本律蔵家に保管され明治時代、狩野亨吉(こうきち)によって発見され千住は昌益研究の原点だ」「昌益稿本が秘蔵されていた深層の意義にさらなる考察を」などの辞で参加者を歓迎した。
基調報告は「昌益の会」の石渡博明事務局長で「調べる会」のチューター。「昌益の医学~その系譜と千住宿」がテーマで「昌益の弟子は八戸、大館をはじめ京都、大阪、長崎など全国にいた。弟子の一人に江戸下町の隠れた名医、川村錦城(別名寿庵)がいる。その息子、真斎(医者)の弟子に千住在住の橋栄徳という人物かおりこの人こそが橋本律蔵ではと見られるが異論もある」と昌益医学の優秀さを含め千住、八戸との関わりを説いた。 ※緊急報告や分科会 注目を集めたのがこの川村錦城こと寿庵について。これに関し岩手県立博物館の斎藤里香主任専門学芸員による緊急報告の場が設けられた。寿庵は奥南部出とは判っていたが盛岡藩の「諸士由緒帳」などにより三戸出身と特定された。同学芸員や三戸町立図書館の相馬英生主査が藩文書類で確認してのこと。 とすれば昌益医学を三戸出身の寿庵が受け継ぎ、橋本律蔵に及んだという筋書きになる。調べる会などの研究で京都大学の内田銀蔵博士(千住出身の歴史学者、律蔵宅の向い)関連未公開資料から橋本律蔵自身が医者ともいうのだから。これまで律蔵は「千住の仙人」などと謎めく人物扱いだったが昌益医学、思想と深い関わりを持ち伝承していたことになる。二日目の分科会では八戸昌益基金の三浦忠司会長が「八戸の安藤昌益」を語り会をまとめた。 ※一人芝居と昌益講談 出色の演しものは当クラブの柾谷伸夫副会長によるフェス二日目の一人芝居「出立(たびだ)つ日」。初演は没後二百三十年・生誕二百九十年を記念して八戸で開かれた「昌益国際フェスティバル・八戸」であり、天聖寺や秋田・大館などゆかりの地で公演され磨きがかかる。前日「歯が痛み急拠千住の歯医者で手当てを受けた」と言う。 しかし、当日は「陸奥南部八戸の里に産土の神…」の祝詞、「雨が続けばお天道様を、日照りが続けば雨を、猪が田畑を荒らせば悪獣退散祈願を」の声、台詞にも冴え。引き連れた照明スタッフらの助力もあり高橋大和守出奔、昌益八戸を出て比内二井田へ向かう…を演じ切った。 もう一つは宝井琴桜講談師による「安藤昌益発見伝」。女史は秋田・横手生まれで女性初の真打ち。「講談は五百年の歴史。昔、女性は絶対講談師になれなかった。それは”好男子”といわれるくらいだから」と笑わせ狩野亨吉をはじめとする人々の昌益発見物語を好演した。 ※交歓会雑感 「私は五戸町出身でして大学の卒論が昌益だった」「秋田の知人へ電話したら『知り合いに昌益がいる』という。どうしてって不思議に思ったの。そして私の職場にも安藤義雄がいる」…フェスティバル初日の夜、北千住駅前の中華店で開かれた記念懇親会は参加者のマイク一言挨拶、懇談で和やかそのもの。 五戸町出身とは全体会で特別講師を務めた菊池勇夫宮城学院女子大学教授のこと。“現代の昌益”とは昌益の子孫、大館の安藤家当主・義雄氏(当日出席)宅の子息。さらに安藤義雄は千住史談会の会長で「…調べる会」の顧問格。いわばこの女性が三人の安藤義雄と二人の昌益の存在を明かし会場を沸かせたことになる。