八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

八月期の講演会報告

柾谷伸夫

 八月は会員で鮫神楽保存会々長柾谷伸夫氏を招いて、演題「鮫の神楽」 について、市教育委員会で収録した DVDを観ながら講演いただいた。

 かつて八戸藩の物資移出港として栄え、海猫の蕪島をのぞむ鮫に伝わるこの神楽は山伏神楽の流れを汲むものである。自由で開放的な土地柄から、修験の手から離れ、神楽連中きた。 と呼ばれる船大工や漁夫たちの愛好者が中心となり、古式を守りながら、 厳しく伝承を伝えると共に、新しく歌舞伎物と呼ばれる組舞を考案し、 民衆の娯楽として綿々と演じられてきた。

 八戸藩日記の文化五(一八〇八) 年七月の項に「鮫村の虎舞の者共を法霊神社の御祭礼のお供に加える」 の記述がある。また五頭現存する獅子頭のなかに、文化一三年の墨書銘があり、嘉永年間編の台本があること等から、鮫神楽の歴史は、それ以前から成立していたと思われる。

 現在は、三十余種目が伝承されており、民族芸能研究の面からも注目されているが、連中の高齢化が進み、 後継者難から存亡の危機にある。

 通常の神楽演目の他に、前述した組舞には幕末の庄屋佐藤連平編の台本が残っている。神楽拍子と舞と芝居の絶妙な組み合わせが魅力だ。江戸との交流が盛んな鮫の回船問屋の彼が仕入れてきた可能性がある。大人数で大掛かりな「安宅関勧進帳」 は見応えがあった。「鐘巻道成寺」は、採物曲技物の「小獅子」と合わせて、 アクロバティックな舞は魅力的だった。三社大祭で人気の虎舞の原型となった「朝鮮国加藤清正虎狩」は、 虎に跨った清正と虎の闘いは迫力があった。

 鮫の神楽といえば「墓獅子」が有名である。これは、かつて各神楽で演じられていたと思われるが、明治政府の神仏分離令によって廃れ、現在は鮫の神楽のみに残されている。 愛好者集団=神楽連中という特殊な体制が、神仏混交の名残りをとどめたのだろう。

 「墓獅子」は、依頼された墓石の前で演じられる。賑やかな囃子と歯打ちから、一転して哀調の曲となり、 歌い手の掛け声に導かれて、歌を一首ずつゆっくり合唱する。伏せていた獅子が俯いたまま伸び上がり、いかにも悲しげに頭をもたげる。歌詞に獅子は所作を合わせる。前半の歌と獅子の所作の連動から、獅子が供物を手向けられる死者を表している。 歌詞は途中、家族・親族の立場からのものに変わり、後半は、また死者の立場になり、死者が成仏する様子が歌われ、この供養が果たされることになる。最後に囃子がまた賑やかになるところは、まるでこの時獅子から死者の憑依が解けたかのようである。

 歌によって死者を招き、歌によって死者と言葉を交わし、歌によって死者の成仏を表す。「墓獅子」は、 歌が生者と死者による交流の媒体として、かつて日本人が持っていた呪術的機能を果たしているのだ。