八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
会員文芸・論壇 村次郎全詩集 刊行に寄せて
柾谷伸夫
「海村とは、嘗ては漁村と呼ばれ、 幾時代貧しさを強いられても、海幸景勝に恵まれ、生活環境、人情美しく、まさしく漁村の村、漁民の村であったのだが。
されど近代化開発による積年の多収穫河川海洋汚染などのための魚介海藻の減少絶滅寸前となるものもあり、従って採るべきものとてなく、 出稼・漁民層の脱落現象著しき、 はや漁村とは名ばかりの、即ち単なる海沿ひの村にすぎなくなった今日的漁村の謂である。」
3.11の大震災及び津波の被害を受けた八戸市鮫町の老舗旅館の取り壊しが行われ、更地になったのは 8月5日だった。往時、窓の下には波が打ち寄せ、波の音を聞きながら食事が出来、明治・大正・戦前を通じて、八戸の代表的な料亭旅館として有名だった石田家だ。あのイチゴ煮を発案した旅館とも言われている。 残念ながら、埋め立てられて、今は更地の向こうには海は見えない。
戦後は十和田湖の「乙女の像」除幕式に参加するため来青した佐藤春夫と草野心平や、「街道を行く」の司馬遼太郎、他に民俗研究家など多くの文人が宿泊している。当主石田實こと詩人村 次郎は学生時代、詩の同人誌等を通して、草野心平、中村真一郎、芥川比呂志、鈴木亨、堀田善衛等と交流しており、それがこの宿泊者たちの素地となっている。
晩年、村さんの部屋に草野の 「ボク死ニマシタ ボクEVELEST 見タカッタ」 の掛け軸がかかっていた。また堀田善衛の「若き詩人たちの群像」には、 鮫町浜町君の名で「石を投げよう 行方が見えるか 音響が聞こえるか 二十四の秋 私は空に石をなげよう」が紹介されている。
学生時代、その詩人としての将来性を嘱望された村さんは、石田家を引き継ぐことになり、詩作は続けるものの、その発表を拒否することになる。
その後、旅館業に精を出しつつ、村さんは民俗学や植物学への造詣を深めることになる。アイヌ語の研究や種差海岸の植物研究には執念すら感じた。部屋には「月刊ぷれいがいど東北」発行者の故夏堀茂さんと撮ったおびただしい数の草花の写真を収めたアルバムがあった。その花を説明する村さんの嬉しそうな顔が忘れられない。たくさんの方が村さんの案内で種差海岸を歩いた。あの墓獅子や組舞の「鮫神楽」の全国発信も村さんの力が大きかった。
そんな村さんの心を痛めたのが、 沿岸漁業で活き活きしていた故郷鮫が、沿岸漁業衰退とともに、沖合、遠洋漁業へと移っていき、漁師の姿すら見ることがなくなった村へと変貌してしまったことである。これは全国各地で起こった現象であり、鮫に限ったことではない。その意味で、 冒頭の前文が収められた詩集「海村」 は、漁業という産業をないがしろにする日本という国に対する警鐘といってよい。
北国海村行 その3
一日中立ってゐる物見の老人達に
佇立以外になにがあらう
待たれた 晴れた海は 波濤ばかり
待たれた 晴れた岸は 人間ばかり
それは それで上天気
一日中遊んでゐる見物の御客達に
見物以外に何があらう
眺めた風景に どうして
漁村の現状を 貧苦を知りえよう
拾った貝殻に どうして
貝殻の原型を 生命を感じえよう
海村から 都市へ
若者達は行きたいし 着飾って
都市から 海村へ
若者達は行きたいのだ 着飾って
それは それで上天気
観光バスは 走ってゐる
村さんは言葉をそぎ落とし、そぎ落として詩を創った。彼の詩で挙げるとすれば?の間いに、誰もが真っ先に挙げる「風の歌」の
風よ おまへは
確に人間だけを吹いてゐる時がある
とはだいぶ趣が違う。それだけ、この「海村」に対する想いは特別だったのだろう。
村さんは、いろんな顔を持っている。今秋刊行の『村次郎全詩集」にはそれら全てが網羅されている。埋もれている詩を探すことから始まり、数えきれないほどのチェックが入り、 いよいよ刊行された。僕らは忘れられた詩人“村 次郎”の実像に迫ることができる。
『詩集』を手に取って、村次郎の詩の世界をじっくり堪能したいものである。