八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club
会員短信 明治三陸津波に思う
伊野忠昭
明治廿九年三陸津波から百十年を過ぎた。宮城・岩手・青森各県沿岸の死者は、二万人を越えた。青森県はそのうちの最少で死者三百四十六名、上北地方は当時の三沢・百石村で死者二百七十二人、三戸地方は湊・鮫・階上村の七十四名であった。村の漁業は鰯地曳網中心で、鰯を大釡で茹で干鰯にして関東・関西に金肥として出荷していたのである。
魚油は燈火に使われていた。漁家は仕事場が海に近かったので漁船のみならず住家・釜場も流失し生活の場を失ったのである。被害を受け流失した漁船、網、家屋、釜場、学校などの再建が急務で規模の小さい村々にとって復興は大変困難な課題であった。民間の義捐金、政府・皇室からの救援金が大きな助けとなった。
中でも漁船の新造、家屋や釜場の再建、学校の復興には県南地方の官林の良質で豊かな木材の供給の力が大きかった。国有林の再建用の木材に加え小屋掛け屋根用の葺材・薪炭材に至るまで特価による払い下げによって、被害民は義捐金・救援金で生活を再建できたのである。
国家が災害に対してすぐ出動出来る森林資源を蓄積していたことは幸せであったと思う。
(東北地理学会会員・三沢市在住)