八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

会員論壇 三陸復興国立公園記念論文 東山魁夷、種差海岸との一期一会

道合政邦

 東山魁夷(本名新吉)は、一九〇八 (明治41)年七月八日、横浜に生まれた。幼少時、虚弱だった彼の一生に種差は如何なる影響を与えたろうか。

 東山と代表作「道」については、 過去に語り尽くされた観がある。しかし、そこにも取り残しの落穂があるはずと考え、細やかながら「道」 と種差海岸に絞って論じてみることにした。参考文献は、極力省略することにする。

 東山の種差初来訪は、戦前の一九四〇(昭和15)年、紀元二千六百年奉祝美術展が開かれる年、32歳の六月であった。山形県蔵王の温泉に宿泊、一週間ばかりスケッチをしても、思うような収穫もなく宿を引き上げ、 福島県白石まで戻った。物足りない気持ちで東京行きの切符を買おうとした時、急に種差のことが頭に浮かび、仙台へ出て、夜行で八戸に向った。尻内(現八戸)で乗換え、種差に着いた。これが、彼の運命を大きく変えることになろうとは、神のみぞ知るであった。この一期一会が無かったら代表作「道」の誕生が幻に終わっていたに違いない。

 種差海岸の魅力をドイツ留学から帰国した東山に伝授したのは、千葉県市川市で、味噌醸造業を営む中村勝五郎氏。彼は馬主で、中山競馬場の開設にも尽くした人物であった。

 東山は一九四五(昭和20)年七月召集され熊本の連隊へ配属。迫撃兵の二等兵として訓練するも、八月終戦、九月四日除隊となる。十二月単身上京、市川市に移り、制作を再開。この地が終の住処となる。

 東山が「道」制作のため種差を再訪するのは最初のスケッチから10年後の一九五〇(昭和25)年朝鮮戦争勃発の年。十年前のスケッチからヒントを得て、道一つに構図を絞り、 他の一切を捨象し、ひとすじの道を象徴的に構成してみた。しかし、この単純化では絵になるか心配になり、 昔の道を捨て切れず、八月、種差行きを決行した。

 この日は東北本線が水害で、奥羽本線回りの青森を経て八戸へ着いた。「台風・気象災害全史」(日外アソシェーツ(株))によれば、一九五〇 (昭和25)年八月二日~七日は、東北・ 関東一円で大雨が降り、仙台市の雨量320㍉を記録、広瀬川氾濫、死者7名、家屋流失157戸など、各地で被害が相次いだとある。東山は早朝、種差に辿り着いた。道は荒れてはいるが、昔のままの姿を見せていた。「やはり来てよかった」と声を上げたと記している。

 これによって東山は「道」制作へ画家人生一生一代、命がけで当たった事が分かる。「道」のため構図・ 構成・色彩など、スケッチ・習作・ 本制作へと血の滲むような試行錯誤を重ねた。

 二〇一三(平成25)年七月十九日、 NHKがテレビで東山の「道」を取上げ放映した。「美の饗宴・東山魁夷・ 東北風景名画道」。「道」を科学の目で読み解く番組で坂道の傾斜の表現に重点を置き、実証的に解説されていた。

 東山の一九四八年作「静朝」(横長) と本作「道」(縦長) 一九五〇年作の絵の勾配を対比し、前者は0.5度、 後者の方が5・8度で可成の急角度を示していた。作家で写真家の椎名誠さんが、現地を目視し「絵の方の勾配が急に見える」と証言していた。

 私は後日、その種差の県道を実測した。上り道を見つけて勾配計で測定すると約2度ほどであった。次に日を改めて、大杉平の八戸高校前の国道(元よねくらホテル前)の急坂を勾配計で測定すると、5・8度を示しており「道」と同角であった。自転車で登るのに困難なほどの坂道である。

 東山は、この「道」を現実の道ではなく、人生や戦争中の労苦を象徴する作品に表現。未来に夢と希望を与え、明るい世界を予見するに足りるに絶妙な勾配を探り当て、万人の共感を得る「道」の名作に仕上げたのだと思う。

 私の友人の一人に熊本県人で、元中・高の美術教師の坂田燦氏がいる。彼は版画教育の名の知れた指導者でもあった。その彼が数年前に写真家小島一郎(故人)の出身地、青森市を訪ねた帰り、蕪島を見たいと来八し、私が市内を案内したことがあった。その際、彼から意外なことを聞いた。退職後の平成11年九月、 最愛の長女Kさん(31)を心不全で亡くし、そのショックで三年開好きな油絵も描けなくなったと言う。しかし、先輩から小島の写真集を貸してもらい救われた。写真集に津軽の厳しい自然の中で真摯に生きる人々の姿があり、心を癒され生きる元気をもらい立ち直ったと言う。

 この例も含めて、八戸の種差には、 単なる風光明媚だけでない、心や魂を浄化し、再生し復活させる神秘的で不思議な力が漂い、漲っているのではないか。それ故に、古来、奥羽地方に歌人西行や俳人芭蕉らが旅したと思われる。当八戸の種差も同様に、何かに導かれるごとく多くの文人墨客が訪れてきたのかも知れない。

 東山魁夷は一九九九(平成11)年五月に老衰のため、90歳で大往生。国立公園種差海岸の誕生を予見できずに。