八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

戦後70年特別企画 その〈3〉青森大空襲、その夜私もいた・・・

吉田德壽

 グオー、キューン、バリバリッ、 ドカーン、ボワッ・・・。米空軍爆撃機 B29が青森市街の役所、学校、商店、 民家、道路、逃げ惑う人々までも容赦なく襲う。日本が大戦で敗戦となる直前、昭和20年7月28日の夜。市街地の90%を火の海と化し生身の人間も焼き殺す地獄絵。世にいう「青森大空襲」だ。

 その大空襲になんと岩手・滝沢村住人で三歳に満たない私が奇しくもこの空襲に遭遇していたのだ。この夜、青森上空に出現した米軍機は70機、米国防省資料では青森、福島へ同日120機も投入したという。

 小さい頃、おふくろ(吉田チギ) が述懐するように「おめだぢぁ火の玉をくぐったンだ。よぐ生ぎで戻れだもの」と語り折に触れ聞かされた。 言われるのは私と妹・慶子だ。

 我が父・徳次郎は支那事変(日中戦争=昭和12年7月~)で召集され、 中国大陸へ渡った。幸い満期除隊し故郷の滝沢村(現滝沢市)へ軍曹と中国語通訳の肩書を持ち帰還できた。

 ところが世界はまたぞろ第二次大戦へと突入。「二度の召集はなかろう」 との期待を裏切り無情な赤紙で敗戦が迫る昭和20年6月、父は再び召集されてしまったのだ。

 次の配属先は第八師団弘前歩兵第三十一連隊だった。弘前三十一連隊と言えば明治35年1月の八甲田山雪中行軍で悲惨を極めた青森歩兵第五連隊と対比し登場する部隊。

 この連隊、編成当初は青森県人が主だったが徴兵区が岩手県であったことから「岩手連隊」の別称があり岩手との関係も深い。だから花巻出身である宮沢賢治の弟が同連隊に所属、賢治自身もしばしば慰問に訪れていたという。この逸話、かつてお互い地方紙記者でいまはペンの同志でもある弘前ペンクラブの泉嶺副会長が教えてくれた。そう言えば秩父宮様も弘前で軍務に携わられたとか。

 さて、世界大戦は終局を迎えつつあった。一般国民は空襲続きで疲弊。 終戦の年の3月10日には東京が大空襲を受け10万人が犠牲になるなど日ごと激しさを増すばかり。こうした状況下だから、おふくろは父に万が一の心の準備か、上の兄2人(徳男、 徳威)はさておき父へ我ら幼子2人の顔を見せ、自分も一目会いたい一心だったのだろう。面会時に手渡す父好みの地酒「鷲の尾」一升はおふくろに言われ兄・徳男が大更(西根) の酒蔵まで買いに行ったという。この酒蔵こそ父母が初めて出会い結婚へとつながった蔵元である。

 おふくろは叔父・上杉昭太郎を伴い私と妹を連れ弘前へ面会に出向いた。その帰り道、運悪く青森大空襲に巻き込まれてしまったのだ。闇をつんざくB29の轟音と爆撃音。百機前後が入れ替わり焼夷弾爆で市街を徹底的に焼き尽くす。一時間半に及ぶ空襲で5万発が次々に撃ち込まれ、汽車の客たちもわれ先にと逃げる。半鐘かサイレンの音か。閃光が走り「川の向こうに田んぼが見えた」 と生前おふくろが逃げ惑う際も農村の主婦らしい観察力を働かせた話しをしてくれた。時季は七月下旬で夏盛りだから稲は穂を出す前だが勢いよく伸び、目に焼き付く光景。推測すれば松原と青森を流れる堤川の辺りであったろう。

 私は昭和17年8月28日生まれだから、ちょうど2歳11ヵ月の日の大空襲体験だ。妹はわずか1歳3か月を過ぎたばかり。老少不定・・・の言葉があるように人間、いつ、どこで死ぬか、だれにもわからない。この9日後が広島の原爆、そして長崎、敗戦へと続くのだ。

 大空襲の時、幼かった私には空爆の異様音が耳に残っているような気がするけれど記憶は定かではない。! 二度の召集を受けた父、その間、家を懸命に守り子どもを育てた母、そしてあの日われらをおんぶして逃げてくれた叔父もいまは黄泉の世界だ。

 親父は酔うと「俺が酒に強くなったのは軍隊で「この青二才、酒も飲めんのか」と古参兵らにどやされたからだ。けれど酒は飲んでも殺して飲む」と口ぐせのように言った。この言葉は「飲んでも理を失うな」と説く父の遺言のようにずっと耳から離れない。

 戦後70年のいま、父母や全国民の辛酸、昨今の政情からも大切な理とは戦争絶対ダメ。ピアス「悪魔の辞典」で「平和とは二つの戦争の間に介在するだまし合いの時期」と皮肉る。どうあれ日本は平和憲法で世界が認知、これからもそうあり続けることであろう。

 青森で大空襲をくぐった奇遇の私はさらなる縁で郷里・岩手を離れ青森県民になった。八戸市はもちろんだが、青森市でも十年余り仕事をしたくさんの出会いに恵まれ知己も多い。あの日あの爆撃で731人の犠牲と記録される。亡くなられた方々へ心をこめ合掌だが、我々が空襲で死んでいれば軍事と関係ない数がさらに四柱増え、この夏、ともに70回忌を迎えることは確かであった。

(会員)