八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

南部・津軽両藩の地を行く

村井村治

 戦後、八戸伝統の三社大祭も9月開催で復活し八戸南部藩13代ご当主・信克様が祭り参列のため来八されるようになりました。小生は高校生のころから面識をいただいておりますが、就職して地元銀行の八戸支店に勤め業務を通じご厚誼を頂くようになりました。

 昭和47年の初秋、南部様ご夫妻が津軽藩の本拠地・弘前市の長勝寺を訪問されることになり大型乗用車で十和田湖を経由し小生も同乗、往復したのです。

 案内のため弘前を一巡し長勝寺に到着しました。長勝寺は津軽藩初代為信公以前からの名刹で、周知の通り津軽藩歴代の菩提寺です。庫裏に通されて当時のご住職とのご挨拶で「八戸南部藩13代当主」に当たることを述べられ、訪問の趣旨を説明し会談に入りました。

 ご住職は感動の面持ちでこの席に臨まれ「八戸南部藩のご当主が津軽藩の城下に足を運ばれたのは歴史上初めての出来事であり、私の生涯にありえない事が現実になりました」 と下にも置かぬ歓待をされたのです。 南部、津軽の成り立ちについては元々南部藩の領地であったが大浦為信が反旗を翻して自領とし、初代津軽為信となり藩制を布いた史実があります。話しが進むにつれ、寺領を掠奪されるという被害を受けた立場の八戸南部藩13代目お殿様が遠路遥々、津軽藩菩提寺を訪問されたことに驚きいっぱいのようでした。

 そのお心を示されたのは津軽家ご先祖様にご報告を兼ねご対面頂きたいーとのことでございます。小生共々通されたのは本堂の最も奥深いところにある土蔵でした。津軽家の最初のころのご遺体はミイラにされ安置されていたのです。

 造りも重厚な棺の蓋が開けられ、 読経のうちに一同は低頭拝礼しました。まさに「滅多にない殊遇」だったわけで津軽藩誕生以来、両藩を二分する諍いが氷解の糸口へと期待されるものでした。

 後年、この日の重要さに気づき、 所用で弘前へ出向いた折りに長勝寺を訪ね代替わりとなっていたご住職に当時の記録か何か残っていないか探していただきました。数日後、「何も見つかりませんでした」との連絡で、返す返すも残念な思いを味わったものです。

(会員、八戸在住)