八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

戦後70年特別企画 その〈5〉小興安嶺密林の置き去り「大青森郷開拓団」

三上秀光

 2014(平成23)年6月、長野県阿智村の満蒙拓平和記念館を訪れる機会があった。満業開拓団資料を閲覧していたら、「大青森郷開拓団」の文字が目に入ったのである。

 早速、調べたら、「大青森郷開拓団」 の逃避行の生々しい記録が残されているのを知ることとなった。

 また、「五戸郷開拓団殉難碑」が建てられている。記録は、長春で川崎文三郎「五戸郷」の団長が筆記したものであった。

 「大青森郷開拓団」は、青森県から集団入植した南部地方の「五戸郷」 と、津軽地方の「青森」、「尾上」という 3つの「開拓団」で構成された。北満の黒河省及河鎮の国境近くへ19 43(昭和18)年5月に入植している。入植時の総人数は700人前後と思われるが、終戦間際になり青荘年が関東軍に招集されたため、大半が女性、子どもと老人の470人となった。

 終戦直前の1945(昭和20)年 8月10・11日、ソ連機の来襲でソ連の参戦を知り12日、全員本部集合し避難を決定する。13日、南方150 キロ先の北安に向かって避難行を始めたところにソ連機が来襲し青年2 人が犠牲。夕刻には「三州義勇隊開拓団」へ到着したがそこは1日違いで土着の人に荒らされた無人の村落だったという。

 一行はそこに一泊後、荷車30台、 馬40頭に必要な食料や物資20日分を債み避難行を再開。大草原、山越え、 河を渡り、道なき道を歩む。女性は子どもの手を引き抱っこにおんぶ、 老人・病人の足は進まず、行列は伸びにのび、切れ切れになった。

 北満の秋の訪れは早く夜は寒い。日が落ちれば木陰に身を寄せ抱き合って寝た。雨の日中は少し移動できたが夜は一睡もできなかった。落後者には家族が付き添い置き去りもでてしまう。悲惨なのは身重女性の早産・流産で死んだ子らも、捨てることが出来ない人はおんぶしたまま行進した。途中、ソ連軍との出会いを避け、小興安嶺密林に入った。そこは白樺、樫などの密林地帯で道もなく、倒木や脚の抜けない沼地では荷馬車を捨てた。8月31日、見晴らしの良い高台に到着した。まわりには山ブドウや木の実、キノコが生えて、人々は争って集め腹に収めた。

 「開拓団」は、ここで2日の休息をとった。幹部らは食糧が底をつき、 病弱者をかかえたまま400余人全員の行進は不可能と考えた。そこで ①病人と看護家族、②夫応召中の子沢山家族③老人④歩行困難者の計106人を残し、300余人が行進を続けることにした。苦渋の決断であったろう。

 残留者のために、木を伐採し掘立小屋を建て、馬1頭を食糧として残した。壮健者は9月3日、昼なお暗い人跡未踏の密林に再び踏み込んだ。 行程は依然として厳しく、傷病人が増加、子どもは痩せ衰え死者は増える。

 9月28日、やっと密林を抜け出し、 現地の者や「諾敏河開拓団」などの援けをうけながらハルピンに着いたのは10月24日、避難行は74日目となっていた。密林で仲間と別れて51 日目で「五戸郷」在籍者はわずか260人であったとか。ここで、応召していた「五戸郷」の川崎団長は避難者と再会をはたすことになる。

 後日談だが置き去り者、避難行中の分散者について「日本人難民収容所」に問い合わせたが、1人の動静も判らなかったという。

(東京在住、会員)