八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

戦後70年特別企画 その〈6〉つながった命

坂本新一

 八戸市立図書館で調べてみると 「八戸の戦争」資料に、昭和20年7月14日土曜日、曇天「五時少し前より空襲あり」「アメリカ軍の艦載機は早朝から夕方まで編隊で八戸の工場地帯や鉄道施設を波状攻撃した」 「*八六型機関車が銃撃され、釜に当り蒸気が吹き出し機関士亡くなる(* 八六型は日本で初めて本格的に量産された蒸気機関車)」とある。私の父は、その生き残った機関士である。

 昭和20年7月末、サヨ(私の母方の祖母)とその娘は南部町法師岡(町村合併後)を歩いていた。親戚の田んぼの草取りを手伝うためである。向こうから白い包帯で顔をくるんだ男がやって来た。その男を見るなり「シンキ(新吉)だせ」とサヨは言った。新吉はサヨの甥である。 サヨの兄は昭和2年に馬に蹴られて亡くなった。新吉はその息子である。

 米軍機の空襲を受けたその日のことを、新吉は「機関士として乗務中、 蒸気機関車のカマが爆撃されて蒸気が噴出し、火傷した。悪虫のあたりで近くの婦人が手当てをしてくれた」と話した。「同乗していた機関士は亡くなった」とも付け加えた。

 今年のお盆に、当時少年だった叔父(父の弟で7つ下)に聞いてみた。 「覚えてるもなんも」と、爆撃されたその日に帰宅した父の姿を「上半身包帯だらけで、ロボットのようだった」と、まるできのうのことのように話した。

 父が道で叔母に出会ったその日は八戸の医者で治療するため、高岩駅に向かうところだった。父は大正15 年3月生まれで二十歳になったばかり。国鉄に入って機関士として働いていた。

 平成27年8月のある日、新吉の息子である私が売市在住のいとこを訪ねた。よもやま話をしているうちに父が爆撃された話になった。「うん、「その人はすぐ近くにいるよ。私の友達で84才。戦争で爆撃があったことをいつも話すけど、私はあまり関心がなくて・・・・・・」と言った。父は時々会っていたであろう姪 (父の姉の娘) に、どうしてその話題を出さなかったのだろう。いとこは「そのお母さんは、3年ほど前に97才で亡くなった」とも教えてくれた。「一人が亡くなり、一人は生き残った」と言っているそうだから、父を介抱して下さった人に間違いない。生前にお会いして話が聞けなかったことを、残念に思う。

 いとこに会って間もなく、思いもかけぬ展開があり、悪虫のご実家で爆撃時の話を聞くことになった。いとこの友達をAさんとしよう。「あんだのお父さんが、オラホさ助けを求めて来たのよ」と当時12才だったAさんはソファに座るなり話し始めた。同僚が爆撃されて、父は転げるように機関室を飛び出し、当時三軒しかなかったうちの一番線路に近かった家に走って助けを求めに来たという。動転したであろう父の姿が目に浮かぶ。爆撃機は機関車の運転士を狙ったのであろう。犠牲者は即死ではなかっただろうか。

 火傷を負った父にはジャガイモをすりおろして、熱を取るべく介抱してくれたそうだ。4年前97才で亡くなったという母親の遺影に手を合わせる。凛とした着物姿だ。84才の娘 Aさんは父を介抱した記憶がないというが、助けを求めてきた人を放っておくはずがない。介抱して下さったのはAさん親子に違いない。母親が生きているうちに聞けたなら、詳しくその日の惨状が聞けたのにと残念に思う。すさまじい爆撃は何度も繰り返されたそうだ。家の中を火玉が飛びかい「おっかながったもなんも」とAさんは話す。タンス中の着物にも弾が走り、切れたり焼け焦げたりして一つも着ることができなかったそうだ。当時6才くらいのAさんの弟さんも来て下さっていた。 「爆撃の音のすさまじさは今でも忘れない」と言った。家の中を銃弾が飛びかうあまりの恐ろしさに、家の外に飛び出した。「外さ出るな!」 と東京から帰省していた叔母は叫んだ。その叔母は「東京の空襲より恐ろしかった (3月10日の東京大空襲のことか)」と言ったそうだ。

 その日の爆撃で火傷を負った父を介抱してくれた悪虫のご婦人達に 「お礼にいかなければ」と言っていた父の願いは叶わず、平成14年に76才で亡くなった。

 もし7月のあの日、弾の軌跡があと数センチ、あるいは爆撃機の打出し角度がほんの数ミリ違っていれば、父と運転していた機関士が入れ替わっていたのかもしれない。亡くなられた機関士の名前も、どこの方だったのかもわからない。

 その後父は、母親孝行がしたいと、 月給三千円だった国鉄から六千円の高館飛行場に仕事を変え、さらに後年、いみじくも同日に爆撃された日東化学に職を得た。やがて結婚し、 4人の子供に恵まれた。父は三交代勤務で、夜勤を終えて朝帰ると少しの仮眠をした後、一反歩の田んぼとリンゴ作りに汗を流し、酒や好きな旅行を楽しんだ。

 父がまだハイハイをしていた幼い頃、父の父が亡くなった。私の祖父である。本家から馬のセリの手伝いに頼まれ、馬に腹を蹴られた。「行きたくないなぁ」とその朝言っていたそうだ。手術をしたが二十日ばかり入院したあと亡くなった。「溜まったガスで腹がふくれ、開腹手術をしたら、臓物が部屋中に飛び散ったそうだ」と父は、まるで見ていたかのように話していたものだ。

 祖父の妹サヨは生れたばかりの娘を背負い、産後間もない体で一里ほども歩いて仲の良かった兄を見送った。祖父が亡くなる直前に生まれていた父。そしてもし、父があの爆撃で亡くなっていれば私は生まれていない。父は危ういところで命が助かり、私の命につながった。

 しかし、先の大戦で太平洋の島々、 アジアの国々、シベリア抑留などで亡くなったおびただしい数の兵士たち、沖縄戦や東京大空襲など全国で亡くなった数え切れない人たち。平和であれば、この世に生を受けていたはずの生まれえなかった人たち。 こののち、戦争で一人でも命を落すようなことがありませんように。父母や兄弟が泣くようなことがありませんように、祈る。

 つけ加えさせて頂ければ、私の母はあの日父と道で出会ったサヨの娘である。

(寄稿・八戸市在住)